気候変動適応における「結果」と「決定要因」としてのメンタルヘルス ―心の健康を適応策の評価と政策に統合することを提言―

2026/07/16

発表のポイント

メンタルヘルス(心の健康)を、気候変動適応の単なる「結果」ではなく、人々の認知能力や適応行動の有効性を左右する「決定要因」として位置づけ、適応策の評価と政策への統合を提言しました。

従来の気候変動への適応策は、防災インフラや暴露リスクなど物理的・制度的な対策に偏り、メンタルヘルスはほとんど考慮されてきませんでした。本提言は、メンタルヘルスが適応の「結果」と「決定要因」という二重の役割を担うことを体系的に整理するとともに、その負担が既存の社会的不平等と交差することを示した点に新規性があります。

メンタルヘルスを適応の評価枠組みや政策(トップダウン・ボトムアップの双方)に組み込むことで、脆弱な集団を取り残さない、より公正で実効性の高い気候変動適応の実現に貢献することが期待されます。

 

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本研究のフレームワーク

 

概要

東京大学大学院工学系研究科のロン イン 准教授、浅谷 公威 准教授、坂田 一郎 教授、吉田 好邦 教授、同大学未来ビジョン研究センターの梶川 裕矢 教授らの研究グループは、気候変動への「適応(注1)」を進める上でこれまで見過ごされてきたメンタルヘルス(心の健康)の重要性を指摘する提言(Comment)を、学術誌 Nature Climate Change に発表しました。

これまでの気候変動への適応策は、防災インフラや土地利用計画といった物理的・制度的な対策に偏り、メンタルヘルスはほとんど考慮されてきませんでした。本提言は、メンタルヘルスが、(1)気候変動によって直接損なわれる「結果」であると同時に、(2)人々が適応行動をとるための認知能力(注2)(リスクの認識、情報処理、意思決定、協調行動)を左右する「決定要因」でもある、という二重の役割を担うことを体系的に整理しました。さらに、気候変動によるメンタルヘルスへの負担が経済・健康・社会における既存の不平等と交差し、子ども、高齢者、移民、屋外や高温環境で働く労働者などの脆弱な集団に偏って深刻な影響が及ぶことを示しました(図1)。

研究グループはこれらの知見を踏まえ、適応策の「評価」と「政策実装」の双方にメンタルヘルスを組み込むための具体的な道筋を提案しています。先行研究では、緑地整備や移住など一部の適応策とメンタルヘルスとの関係が論じられてきましたが、本提言はメンタルヘルスを適応の中心的な構成要素として体系的に位置づけた点に新規性があります。この成果は、脆弱な地域や集団を的確に見極め、公正で実効性の高い適応策の設計に役立つことが期待されます。 

 

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1:本研究のフレームワークメンタルヘルスへの負担が

経済・健康・社会的な格差と交差し、気候変動適応を困難にする仕組み

 

 

発表内容

気候変動対策では、温室効果ガスの排出削減(緩和)だけでなく、変化する環境に順応し、その悪影響を軽減する「適応」の重要性が増しています。しかし、これまでの適応に向けた取り組みやリスク評価では、物理的な暴露や身体的な感受性・脆弱性に重点が置かれ、メンタルヘルスへの影響はほとんど考慮されてきませんでした。国レベルの適応計画においても、複合的なストレスから生じる心理社会的リスクはまれにしか扱われず、適応政策の大きな「盲点」となっていました。

この度、本研究グループは、メンタルヘルスが気候変動適応において果たす二重の役割を整理しました。第一に、極端気象や災害は、ソラスタルジア(注3)、エコ不安・気候不安(注4)、気候トラウマ、エコ悲嘆といった新たな精神的不調を引き起こし、あるいは既存の負担を悪化させます。第二に、強い心理的苦痛はリスク認識をゆがめ、情報処理や計画・行動する力を損なうため、人々が適切な適応行動をとることを妨げ、リスク情報の回避や気候リスクの否認といった不適応な対処につながります。一方、メンタルヘルスが保たれている地域社会では、協調的な行動や情報共有、相互の信頼維持が進み、地域全体の適応能力が高まります。

また、メンタルヘルスへの負担は万人に等しく生じるのではなく、年齢・所得・教育・性別・職業・地域などによって偏ります。子どもは早期の被災が認知発達や情動調整に長期的な影響を残しやすく、高齢者は身体的なレジリエンスの低下や社会的孤立により脆弱性が高まります。農業・建設業など高温環境で働く労働者や移民は、気候リスクにさらされやすい一方で適応が難しい状況にあり、身体的負担と心理的ストレスに経済的・社会的制約が重なる「二重の負担」に直面します。こうしたメンタルヘルスへの負担は、既存の経済・健康・社会における不平等と交差することで、気候リスクへの暴露や対処能力の格差をさらに拡大させます(図1)。

研究グループは、メンタルヘルスを適応の枠組みに組み込むために、「評価」と「政策実装」の両面で体系的な転換が必要であると提言します。評価の面では、緑地整備や移住・再定住といった適応策がメンタルヘルスに与える正負の影響を、所得の安定、社会的結束、制度への信頼、公正感の変化などの間接的な経路も含め、定量・定性の両面から捉えることが重要です。政策の面では、トップダウン(適応計画・公衆衛生・防災に対するメンタルヘルスの統合、労働者保護基準の整備、社会的セーフティネットの強化、早期警戒システムと心のケアの連携、学校教育での気候・メンタルヘルスリテラシーの導入)と、ボトムアップ(地域のネットワークやコミュニティ主体の取り組みによる信頼・結束・集合的効力感の醸成、地域特性に応じたコミュニケーション、当事者参加型の適応プロセス)の双方を組み合わせ、脆弱な集団を優先した適応策を進めることが求められます。

本提言は、これまでの適応の枠組みではほとんど「見えない」存在であったメンタルヘルスを中心に据えることで、脆弱な集団を取り残さない、より公正で実効性の高い気候変動適応の実現に貢献することが期待されます。また、本提言が示す視点は、今後の世界的な気候変動適応や公衆衛生政策の立案においても重要な指針となることが期待されます。

 

発表者・研究者等情報

東京大学

大学院工学系研究科

ロン イン(Long Yin) 准教授

浅谷 公威 特任准教授

坂田 一郎 教授

吉田 好邦 教授

工学部 システム創成学科

シュウ ズーイー(Zhou Ziyi) 学部研究生

 

未来ビジョン研究センター

梶川 裕矢 教授

 

論文情報

雑誌名:Nature Climate Change

題 名:Mental health as both outcome and determinant in climate adaptation

著者名:Yin Long*, Ziyi Zhou, Yuya Kajikawa, Kimitaka Asatani*, Ichiro Sakata, Yoshikuni Yoshida*責任著者

DOI10.1038/s41558-026-02673-2

URLhttps://doi.org/10.1038/s41558-026-02673-2

 

研究助成

本研究は、日本学術振興会 科学研究費助成事業(課題番号:JP25K00045)の支援を受けて実施されました。また、本研究は東京大学・株式会社クボタ(KUBOTA Corporation, Japan)「持続可能なシステムへの転換」社会連携講座(Social Cooperation Program on Transition to Sustainable System)」の一環として行われました。

 

用語解説

(注1)適応(adaptation):

変化する気候・環境の悪影響を軽減し、それに順応するための取り組み。排出削減を目指す「緩和(mitigation)」と対をなす概念。


(注2)認知能力(cognitive capacity):

情報を処理し、意思決定を行い、行動を継続するための心的な能力。


(注3)ソラスタルジア(solastalgia):

気候変動や環境の変化によって、住み慣れた土地・環境が失われることで生じる喪失感や心理的苦痛。


(注4)エコ不安・気候不安(eco-anxiety / climate anxiety):

気候変動を地球規模の脅威として認識することに伴う不安や心理的苦痛。エコ悲嘆(eco-grief)は環境の喪失に対する悲しみを指す。

 

 

 

プレスリリース本文:PDFファイル

Nature Climate Change:https://doi.org/10.1038/s41558-026-02673-2