【発表のポイント】
- 量子力学の法則に従って相互作用するミクロな粒子の集団、すなわち、量子多体系が引き起こす現象に着目する量子多体問題を解析した最先端の数値計算データを、国際協力体制のもと収集しました。
- 収集した計算結果がどれだけ精度よく量子多体問題を解析できているかを数値化する統一的な指標を提案しました。
- 収集した計算結果と統一的な性能指標を用いることで、物理学を含む自然科学の最重要問題の一つである、量子多体問題に対する従来のコンピュータを用いた数値解析手法の「立ち位置」が浮き彫りになり、量子コンピュータ(注1)が達成すべき量子優越性の基準が明確になりました。
【概要】
量子多体問題は、多数のミクロな粒子同士が量子力学の法則に従って相互作用し、複雑に絡み合うことで生まれる、物質の新たな性質や現象を理解・予測することで、自然界の現象を究極的に説明する挑戦的課題です。量子コンピュータを用いると、従来のコンピュータ(以降、古典コンピュータ)よりも性能良く量子多体問題を解析できる可能性(量子優越性)が指摘されていますが、どのレベルの計算を達成すれば量子優越性が実現されるかの基準は曖昧でした。
早稲田大学理工学術院のミハエル・シュミット次席研究員(研究当時)、東北大学金属材料研究所の野村悠祐教授とリコ・ポーレ特任助教、東京大学の今田正俊名誉教授(上智大学客員教授)は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のディアン・ウー博士課程学生、ジュゼッペ・カルレオ准教授を中心とする国際協力体制を組み、量子多体問題を解析した最先端の異なる手法による計算結果を収集し、その精度を表す統一的指標を提案しました。精度の数値化によって量子多体問題に立ち向かう数値手法の進歩の度合いが可視化され、また将来の実現が見込まれる量子コンピュータが取り組むべき課題・量子優越性の基準が明確に定まりました。
本研究成果は2024年10月17日(米国東部夏時間)に、科学雑誌Scienceのオンライン版に掲載されました。
【詳細な説明】
研究の背景
量子力学に従うミクロな粒子が相互作用するときのふるまいを解き明かす問題を量子多体問題と言います。エレクトロニクスによる科学技術の根幹となる物質中の電子の性質の理解や、原子核をさらに細かくしていったクォークの性質の理解に至るまで、物理の難問とされている問題は量子多体問題で占められています。量子多体問題を解くことができれば、自然現象の究極の理解につながると考えられるため、量子多体問題の解明は自然科学の最重要課題の一つであると言って過言ではありません。
古典コンピュータを用いて量子多体問題を厳密に解析しようとすると、指数関数的に途方もない時間がかかることがわかっており、現実的な計算時間内では達成できません。そのため、何らかの近似を導入することで、できるだけ精度良く量子多体問題を解析しようとする試みが世界中でなされてきました。現在ではその解析手法は多岐にわたっており、それぞれの手法に一長一短があります。
一方で、その方向性とは別に量子コンピュータを用いる新たな計算手法が提案されつつあります。将来的には、古典コンピュータよりも性能良く量子多体問題を解析できる可能性と期待があります。
このような状況において、現在の量子多体問題の数値解析手法の最前線を整理し、多岐にわたる計算手法の性能を統一的に比較することのできる指標を作成することや、量子コンピュータが古典コンピュータの性能を越えるときに使われる量子優越性の基準を明確にしておくことは、非常に重要な課題となっています。
今回の取り組み
量子多体問題の数値解析手法の最前線の現状を整理するために、各国の量子多体問題解析の専門家からなる国際協力体制を組み、古典コンピュータを用いて量子多体問題を解析した様々な数値解析手法の最先端の計算結果のデータを収集しました。その上で、それらの計算結果の性能を表す統一的な指標となるVスコアという量を提唱しました。
古典コンピュータで近似を行なって計算したときに、得られた答えがどれほど信頼できるものか、厳密な答えに近いかは、一般には厳密な答えにたどり着くまでわからず、答えが分からないと信頼度の判定ができないという困難がありました。このVスコアという量は、厳密な答えを知らなくてもエネルギーの分散という量がゼロになったときが厳密な答えであるという性質を利用して、量子多体問題の近似精度を上げるために、東京大学物性研究所教授だった今田正俊氏が2000年に導入した物理量と同じもので、今回の指標提案の鍵となっています。
この統一的な性能指標Vスコアを用いると、様々な数値手法の性能が公平に比較できるだけでなく、どのような量子多体問題が難しいのか、が明らかになります。例えば、量子スピンが相互作用する量子スピン系にも、スピンが存在する場所の配置や相互作用の仕方によって様々に異なる性質を持つ問題が存在しますが、その中でも、スピン相互作用のエネルギー利得を同時に満たすことができない幾何学的フラストレーションのある量子スピン系(注2)の量子スピン問題が難しいことが明白になりました。また、量子スピン問題よりも、電子同士が強く相互作用しながら結晶中を飛び回る強相関電子系(注3)の問題の方が難しい傾向にあることもわかりました(図1)。
多くの計算結果のデータを収集し、それらを統一的な性能指標で解析したことで、古典コンピュータを用いるとどのくらいの性能で量子多体問題を解析できるのか、という現在の最前線を数値化することに成功しました(図2)。これにより、量子コンピュータがどの程度の性能を実現すれば量子優越性が達成されるかの基準も明らかになりました。
今後の展開
量子多体問題の数値解析の性能の数値化に成功したことにより、量子多体計算手法が目指すべき方向性をより明確にすることができます。古典コンピュータ側では、さらなる手法の進化によって、この性能指標のスコアをさらに向上させることにより、未解決な量子多体問題の謎により深く迫ることができます。また、量子コンピュータ側からすると、古典コンピュータの性能のレベルが数値化されたことによって、量子優越性達成のための基準が明らかになり、達成すべき目標をより定めやすくなりました。ターゲットがより明確になったことで、量子アルゴリズムのさらなる開発促進が望まれます。
【謝辞】
本研究は、文部科学省の科研費(課題番号:JP19H00658, JP21H01041, JP22H05111, JP22H05114, JP23H04869, JP23H04519, JP23K03307)、文部科学省スーパーコンピュータ「富岳」(注4)成果創出加速プログラム(課題番号:JPMXP1020200104, JPMXP1020230411)、科学技術振興機構の共創の場形成支援プログラム(課題番号:JPMJPF2221) の助成を受けて行われました。また、本研究は計算基礎科学連携拠点(JICFuS)のもとで実施されました。計算の一部には、理化学研究所計算科学研究センターに設置されているスーパーコンピュータ「富岳」 (課題番号:hp210163, hp220166)、および、東京大学物性研究所のスーパーコンピュータが使用されました。
図1. 様々に異なるタイプの量子多体問題を様々な数値手法で解析した際の性能指標Vスコアの一覧。Vスコアの値が小さくなっている量子多体問題ほど解析が易しく、Vスコアの値が大きくなっている量子多体問題ほど解析が難しい。このような一覧を作ることで、現在の数値手法がどの程度のレベルで量子多体問題を解析できるかが明らかになるとともに、どの量子多体問題が最も挑戦的か、も明らかになる。
図2. 量子多体問題に対して様々な数値手法を用いて挑戦することを山登りに喩えた概念図。今回の研究で、量子多体問題に対してどの程度のレベルの解析ができるのか、という人類の知の“最高到達地点”が明らかになった。
【用語説明】
注1.量子コンピュータ量子力学特有の性質を活用して計算を行う次世代のコンピュータを量子コンピュータと言います。従来のコンピュータ(しばしば古典コンピュータと呼ばれます)は、0か1の値を持つ古典ビットによる二進法を用いて計算を行います。一方、量子コンピュータの演算単位は量子ビット(キュービット)と呼ばれ、量子力学の性質によって0を表す状態と1を表す状態の「重ね合わせ」が許されます。この量子力学的重ね合わせと、量子ビット間の絡み合いの性質である「量子もつれ」の性質を用いて演算を行うことによって、特定の問題を古典コンピュータよりも高速かつ性能良く解くことができるようになると期待されています。
注2.幾何学的フラストレーションのある量子スピン系
量子スピンもしくはキュービットの自由度が相互作用する量子スピン系の中でも、スピンが配置されている格子の幾何学的構造や、互いに異なるスピンの揃い方を好む相互作用の競合などによって、全てのスピン相互作用によるエネルギー利得を同時に満たせない状況にある場合、幾何学的フラストレーションの効果が存在するといいます。例えば、三角形の各頂点A ,B ,C上のスピンに対し、スピンがお互いに反対向きになろうとする相互作用があった場合、A点のスピンとB点のスピンの向きが反対になると、 C点のスピンはどちらを向いて良いかわからなくなってしまいます。このようなフラストレーションがあると、量子もつれの効果の顕著な量子スピン液体と呼ばれる古典的に理解できない状態が実現することがあることが知られていて、この量子スピン液体の本性の解明は現在の物理学の重要課題となっています。また、この量子スピン液体状態はスピンや電子が分裂して新たな粒子が基本粒子であるかのようにふるまう「分数化」と呼ばれる現象の研究舞台ともなっており、この分数化を利用した量子コンピュータの原理の研究も盛んに行なわれています。
注3.強相関電子系
電子が固体中を動き回る場合、あたかも自由電子のように振る舞う単純金属のような場合もあれば、電子間のクーロン相互作用の影響が強く、もはや自由電子のように振る舞うことができなくなってしまいひしめき合う場合もあります。前者に属する場合は周りの電子の影響もならして(平均化して)取り込むことができます。しかし、後者の場合、互いの電子がお互いに影響を及ぼし合って動く「多体問題」となるために膨大な自由度を丸ごと扱わなければならないだけでなく、電子が量子力学的な粒子であるために、「量子もつれ」という互いの絡み合いが理解を困難にします。この後者のような状況が実現している系を強相関電子系とよびます。高い転移温度で超伝導を発現することで知られる銅酸化物高温超伝導体は典型的な強相関電子物質です。
注4.スーパーコンピュータ「富岳」
スーパーコンピュータ「京」の後継機として理化学研究所が設置し、2021年3月から共用を開始した計算機。2020年6月以降、世界のスーパーコンピュータに関するランキングにおいて、4部門で4期連続1位、うち2部門で9期連続1位を獲得するなど、世界トップレベルの性能を持ちます。
【論文情報】
タイトル:Variational Benchmarks for Quantum Many-Body Problems
著者: Dian Wu, Riccardo Rossi, Filippo Vicentini, Nikita Astrakhantsev, Federico Becca, Xiaodong Cao, Juan Carrasquilla, Francesco Ferrari, Antoine Georges, Mohamed Hibat-Allah, Masatoshi Imada, Andreas M. Läuchli, Guglielmo Mazzola, Antonio Mezzacapo, Andrew Millis, Javier Robledo Moreno, Titus Neupert, Yusuke Nomura, Jannes Nys, Olivier Parcollet, Rico Pohle, Imelda Romero, Michael Schmid, J. Maxwell Silvester, Sandro Sorella, Luca F. Tocchio, Lei Wang, Steven R. White, Alexander Wietek, Qi Yang, Yiqi Yang, Shiwei Zhang, *Giuseppe Carleo
掲載誌:Science
DOI:10.1126/science.adg9774
URL:www.science.org/doi/10.1126/science.adg9774
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