発表のポイント
◆ 量子多体系のダイナミクスを計算に活用する機械学習手法「量子リザバーコンピューティング」について、量子カオスを示す代表的な模型を用いて性能を系統的に解析しました。
◆ 秩序とカオスの境界に位置する量子版「カオスの縁」において、量子リザバーコンピューティングの計算能力が最大となることを明らかにしました。
◆ 脳活動や生態系モデルなどの複雑系で注目されてきたカオスの縁が、量子の世界でも重要な役割を果たすことを示し、古典系と量子系を貫く新たな普遍的視座を提供する成果です。

古典系と量子系におけるカオスの縁の概念図
概要
東京大学大学院工学系研究科の小林 海翔 大学院生と求 幸年 教授は、量子多体系(注1)のダイナミクスを計算資源として用いる「量子リザバーコンピューティング(注2)」において、その計算能力が量子版「カオスの縁」で最大化されることを見いだしました。カオスの縁とは、古典系における秩序とカオス(注3)の境界に位置する状態を指し、脳活動や生態系など多彩な複雑系の理解において重要な概念だと考えられています。特に古典系のリザバーコンピューティング(注4)では、多くの系でカオスの縁における性能向上が報告されてきました。本研究では、量子カオス(注5)が顕在化し始める境界領域を量子カオスの縁と捉え、その領域で量子リザバーコンピューティングの性能が向上することを実証しました。これは、古典系で得られていたカオスの縁に関する知見が量子多体系へと拡張できることを示すものです。本成果は、カオスの縁が、古典系から量子系に至るまで、自然界からテクノロジーにわたる幅広い領域において、高い計算能力を実現する普遍的な原理となり得ることを示唆しており、今後は量子リザバーコンピューティングに限らず、より広範な量子アルゴリズムにおける情報処理特性の理解・設計へと波及することが期待されます。
本研究成果は、2026年1月28日(米国時間)に米国科学雑誌『Physical Review Letters』のオンライン版に掲載されました。
発表内容
〈研究背景〉
量子コンピューティングは通常、目的に応じて設計した量子操作列(量子回路)からなるアルゴリズムによって実現されます。これに対し近年、量子多体系の自然なダイナミクスそのものを計算資源として利用する量子リザバーコンピューティングが注目を集めています(図1)。これは機械学習手法の一つであるリザバーコンピューティングの量子系への拡張と捉えることができ、通常のニューラルネットワークが担う情報変換を、量子多体系のダイナミクスで代替する枠組みに相当します。こうした構造上、量子リザバーコンピューティングの性能は、用いる量子多体系の性質に強く依存することが知られています(関連情報[1])。しかし、どのような量子多体系が高性能計算に適しているのかという設計指針は、これまで十分に確立されていませんでした。
図1:量子コンピューティング(量子回路モデル)と量子リザバーコンピューティングの概念図
(a) 量子コンピューティング:量子ゲート列を順次作用させて量子状態を変換し、測定結果として出力を得る。(b) 量子リザバーコンピューティング:入力で駆動した量子多体系のダイナミクスを利用し、観測量の読み出しにより出力を生成する。出力重みのみを学習により最適化する。
一方、従来の古典的なリザバーコンピューティングでは、ネットワークが「カオスの縁」に位置するときに最高性能を示すことが多くの系で実証されています。ここでカオスの縁とは、秩序とカオスの境界にあたる領域を指し、機械学習に限らず複雑系一般において重要視される概念です。例えば脳活動の神経モデルや生態系の数理モデル解析においても、システムがカオスの縁にあるときに高い計算能力や環境適応力を発揮し得ることが示唆されています。それに派生して、社会学的・哲学的な比喩としてカオスの縁が参照される例も少なくありません。こうした背景を踏まえ、本研究では量子系におけるカオスの縁、すなわち量子カオスの縁が、量子リザバーコンピューティングの設計指針となりうるかどうかを明らかにするため、詳細な解析を行いました。
〈研究内容〉
本研究では、量子カオスを示す典型的モデルを用いて、量子カオスと量子リザバーコンピューティングの性能との関係を系統的に解析しました。特にランダム行列理論(注6)に基づき、量子カオスの縁を時間領域とパラメータ領域の二つの観点から定義しました。時間領域については、量子カオスの普遍的性質が顕在化し始める時間スケールを、時間領域における量子カオスの縁として位置づけました。また、パラメータ領域に関しては、量子カオス模型と非量子カオス模型を連続的に混合した際に、量子カオス的特性が顕著となり始める混合比を、パラメータ領域における量子カオスの縁と定義しました。
量子リザバーコンピューティングでは、情報変換に用いる量子多体系の時間発展の長さが、実効的な時間スケールとして機能します。そこで本研究では、この時間発展長さと、非量子カオス模型との混合比を変化させながら、量子リザバーコンピューティングの性能を評価しました(図2)。その結果、時間領域とパラメータ領域の双方で定義した二種類の量子カオスの縁において、量子リザバーコンピューティングの性能が明確に向上することを見出しました。こうした性能向上は複数の計算タスクで一貫して確認され、さらにモデルの詳細に依存しないランダム行列理論により特徴付けられることから、一定の普遍性を持つ現象であることが示唆されます。従って、これらの結果は、量子カオスの縁が量子リザバーコンピューティングにおける有効な設計指針であることを強く支持するものです。

図2:量子カオスの縁近傍における量子リザバーコンピューティングの計算性能
非線形自己回帰移動平均ベンチマークタスクにおける性能。(a)時間発展長さ、(b)モデル混合比に対する依存性を示す。縦軸は計算誤差(正規化平均二乗誤差)であり、陰影部分は分散を表す。線の色はタスクの難易度を表し、濃いほど低く、薄いほど高い。破線はランダム行列理論に基づいて定めた量子カオスの縁を示す。
〈今後の展望〉
本成果は、これまで古典系で指摘されてきたカオスの縁という概念を量子多体系へと拡張し、その情報処理能力との強い関連を初めて明らかにしたものです。今後は、量子リザバーコンピューティングに限らず、より広範な量子アルゴリズムにおいて、量子カオスの縁が情報処理特性にどのような影響を与えるのかを解明することにより、量子情報科学の発展へ大きな波及効果が期待されます。
〇関連情報:
[1] プレスリリース「量子多体系の情報処理性能を通じて相転移現象を解明―物性物理と情報科学との架け橋となる量子リザバープロービング―」(2025/4/25)
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/pr2025-04-25-003
発表者・研究者等情報
東京大学 大学院工学系研究科
小林 海翔 博士課程
求 幸年 教授
論文情報
雑誌名:Physical Review Letters
題 名:Edge of Many-Body Quantum Chaos in Quantum Reservoir Computing
著者名:Kaito Kobayashi*, Yukitoshi Motome
DOI:10.1103/j2qj-vwcl
URL:https://doi.org/10.1103/j2qj-vwcl
研究助成
本研究は、科学研究費助成事業(JP25H01247)、JST BOOST (JPMJBS2418)の支援を受けたものです。また、本研究の計算の一部は東京大学物性研究所スーパーコンピュータを利用し行われました。
用語解説
(注1)量子多体系:
多数の量子力学的な粒子(例:電子や原子)が相互作用し合う系。相互作用を通じて、個々の粒子の振る舞いからは想像もつかないような複雑な物理現象(例:超伝導や磁性)を生じることがある。
(注2)量子リザバーコンピューティング:
量子系に情報を入力し、その時間発展による応答を読み出すプロセスを、リザバーコンピューティング(注4)におけるリザバー部と同一視する枠組み。リザバー内部における情報変換を量子ダイナミクスが担うことで、量子系が持つ高い自由度や複雑なダイナミクスを計算資源として活用できる。
(注3)秩序とカオス:
カオスとは、決定論的な法則に従う系であっても、初期条件のわずかな違いが将来の状態に大きな差を生み、結果として確率的に見えるような不規則で複雑な振る舞いを示す状態を指す。これに対し秩序(非カオス)的挙動とは、同様の初期条件や履歴に対して、再現性の高い規則的な振る舞いを示す状態である。
(注4)リザバーコンピューティング:
時系列情報処理に適した機械学習手法の一つ。入力部・リザバー部・出力部から構成される。一般的なニューラルネットワークのように全ての重みを学習するのではなく、入力部およびリザバー部の結合は固定し、学習を出力部の線形結合のみに限定する点が特徴。リザバー部が入力を高次元かつ非線形に変換し、出力部がそれを線形結合で読み出すことで、システム全体として高い情報処理能力を獲得する。学習すべきパラメータ数が少ないため学習が高速で、エッジデバイスでのリアルタイム処理などへの応用が期待されている。
(注5)量子カオス:
古典力学におけるカオス(注3)の概念を量子系へ拡張したもの。量子系には古典系のような軌道の概念が存在しないため、主にエネルギー準位の統計的性質などによって特徴づけられる。
(注6)ランダム行列理論:
成分がランダムに与えられる行列について、固有値分布などの統計的性質を扱う数学理論。物理学では、複雑な系のスペクトル統計を記述する枠組みとしても用いられる。
プレスリリース本文:PDFファイル
Physical Review Letters:https://doi.org/10.1103/j2qj-vwcl
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