プレスリリース
- 研究
- 2022
人工嗅覚センサを介した呼気センシングによる個人認証―化学情報による偽造できない生体認証技術実現へ期待―
1.発表のポイント:
◆16種類の高分子材料と導電性カーボンナノ粒子の混合物で構成される人工嗅覚センサ(注1)を介して、呼気センシングによる個人認証(注2)の原理実証に成功。
◆人工知能による機械学習(注3)を通して呼気センシングにより得られたデータ群を分析し、20名を対象とする個人認証を97%以上の高精度で達成。
◆膨大な呼気分子群の化学情報を利用する本技術を導入することで、生体認証における情報の偽造防止や窃取した情報による長期的なりすまし防止に期待。
2.発表概要:
東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻の長島一樹 准教授、柳田剛 教授、九州大学大学院総合理工学府のジラヨパット チャイヤナ 大学院生(研究当時)、名古屋大学大学院工学研究科生命分子工学専攻の安井隆雄 准教授、馬場嘉信 教授、パナソニック インダストリー株式会社 技術本部の花井陽介 主任技師、中尾厚夫 主任技師、中谷将也 課長らの研究グループは、生体呼気から得られる化学情報に基づく個人認証の原理実証に成功しました。
本研究では、16種類の高分子材料と導電性カーボンナノ粒子で構成される人工嗅覚センサを介して呼気センシングを行い、得られたデータ群を人工知能による機械学習を通して分析することで20人の個人認証を97%以上の高精度で達成しました。従来の物理情報を介した方法と比べて、膨大な種類の呼気分子群を通して得られる化学情報を利用する提案方法は、情報の偽造や窃取した情報による長期的ななりすましが極めて困難であることから、高いセキュリティの生体認証技術の実現に繋がると期待されます。
本研究成果は、2022年5月20日(英国夏時間)に英国王立化学会が出版する「Chemical Communications」誌のオンライン版に掲載されました。
3.発表内容:
<研究の背景>
生体認証は、人間の身体的特徴や行動的特徴を用いて個人認証を行う仕組みであり、パスワード認証やPIN認証(注4)に代わる簡便かつセキュリティの高い本人確認方法として、近年広く利用されています。これまでに指紋、掌紋、顔、虹彩、網膜、指静脈、耳音響、声紋などさまざまな特徴を利用した生体認証技術が開発されてきましたが、物理情報に基づくそれらの技術では、外傷などの身体的特徴の変化による認証精度の低下や、情報が偽造・窃取された際の長期的ななりすましのリスクなどの課題が残されています。
生体ガスを介した生体認証技術は、生体ガスを構成する分子群の化学情報(各分子の種類やその多寡)に基づいて個人認証を行う新しいアプローチです。生体ガスは内因性の成分を含む膨大な種類の分子群で構成されるため、外傷による変化や情報偽造がされにくく、また一度使うと消費されるため窃取による長期的ななりすましが困難であるといった特徴があり、従来の生体認証技術が抱える課題を本質的に克服できる可能性を有しています。これまで主に皮膚ガス(注5)を利用した個人認証の研究が行われてきましたが、皮膚ガスに含まれる多くの分子群の濃度はppt~ppb(注6)レベルと化学センサの検出限界を大きく下回ることから、個人認証に利用可能な分子の種類は限定的であり、本アプローチの適用限界が示唆されてきました。
<研究内容>
本研究では、皮膚ガスに対して構成する分子群の濃度が三桁程度高い呼気ガス(ppb~ppm(注7)レベル)に着目し、人工嗅覚センサを介した呼気センシングによる個人認証の原理実証を行いました(図1)。まず初めに、呼気ガスが皮膚ガスと同様に個人認証に利用可能な成分を含んでいるかを調べるために、ガスクロマトグラフ質量分析計(注8)を用いて呼気ガスの成分分析を行いました。その結果、呼気ガスでは皮膚ガスと共通する成分が多数検出されると共に、個人を特徴づける成分を示した特徴量マップから個人毎に異なる呼気成分のパターンが存在することを見出しました(図2)。
次いで、16種類の異なる性質を有する高分子材料と導電性カーボンナノ粒子の混合物から成る人工嗅覚センサを構築しました。人工嗅覚センサは、分子が吸着するとセンサ材料が体積膨張し、導電性カーボンナノ粒子間の距離が広がることで電気抵抗が増加するといった原理に基づいて標的分子を検出します。分子の検出のしやすさは高分子材料と標的分子の親和性により決定され、異なる性質の高分子材料を利用して多チャンネルのセンサアレイ(注9)を構築することで、多種多様な分子群を検出することが可能となります。本研究グループは、作製したセンサ素子を用いて呼気ガスの成分分析で得られた個人識別マーカー分子(注10)のセンシングを行い、呼気ガスの濃度範囲(2-10 ppb)で標的分子を検出可能であることを確認しました。
呼気センシングは、サンプリングバッグを用いて採集した呼気を内部に人工嗅覚センサを設置した計測システムへ流入して行われました(図3)。年齢・国籍・性別の異なる空腹状態の6名を対象に呼気センシングを行った結果、16個のセンサ素子は全て異なる応答を示し、加えて個人毎に異なるパターンのセンサ応答が得られました。また、個人を特徴付けるための各センサの寄与度を評価したところ、全てのセンサ素子が個人認証に有効であることが確認されました(図4)。
呼気センシングによる個人認証の原理実証は、人工嗅覚センサを介して得られたセンシングデータに対してニューラルネットワークモデル(注11)に基づく機械学習を適用して行われました。6名を対象に行った個人認証の実証実験では、平均97.8%の精度で個人を識別することに成功しました(図5(a))。この高い識別精度(>97%)は、別の日に呼気をサンプリングした場合や対象人数を20名に増やした場合の実証実験においても同様に達成されました。本研究では、データ分析に使用するセンサ数の増加に伴って識別精度・再現性が上昇する傾向も観測されており(図5(b),(c))、本研究で得られた一連の知見は今後さらなる多人数の識別へ向けたセンサ開発の重要な指針になると期待されます。
<将来展望>
本研究では呼気センシングを介した個人認証の原理実証に成功しましたが、本技術の実用化に向けてはさらなる多人数を対象とする実証実験や摂食が及ぼす認証精度への影響など多くの課題が残されています。本研究で得られた知見に基づいて人工嗅覚センサのチャンネル数を増やすと共に人工嗅覚センサのパフォーマンス向上を図ることで、これらの課題が克服され、高いセキュリティの生体認証技術の実現に繋がると期待されます。
<謝辞>
本研究は、科学技術振興機構「さきがけ(課題番号:JPMJPR19J7)」、「CREST(課題番号:JPMJCR19I2)」、科研費「基盤研究(S)(課題番号:JP18H05243)」、「基盤研究(B)(課題番号:JP20H02208)」「国際共同研究強化(B)(課題番号:JP18KK0112)」「特別研究員奨励費(課題番号:JP20F20048)」の支援により実施されました。
4.発表雑誌:
雑誌名:「Chemical Communications」(オンライン版:5月20日)
論文タイトル:Breath odor-based individual authentication by an artificial olfactory sensor system and machine learning
著者:Chaiyanut Jirayupat, Kazuki Nagashima,* Takuro Hosomi, Tsunaki Takahashi, Benjarong Samransuksamer, Yosuke Hanai, Atsuo Nakao, Masaya Nakatani, Jiangyang Liu, Guozhu Zhang, Wataru Tanaka, Masaki Kanai, Takao Yasui, Yoshinobu Baba, and Takeshi Yanagida
DOI番号:10.1039/d1cc06384g
5.発表者:
ジラヨパット チャイヤナ(研究当時:九州大学 大学院総合理工学府 物質理工学専攻 博士課程学生、現所属:東京大学 大学院工学系研究科 応用化学専攻 学術専門職員)
長島 一樹(東京大学 大学院工学系研究科 応用化学専攻 准教授)
花井 陽介(パナソニック インダストリー株式会社 技術本部 主任技師)
中尾 厚夫(パナソニック インダストリー株式会社 技術本部 主任技師)
中谷 将也(パナソニック インダストリー株式会社 技術本部 課長)
安井 隆雄(名古屋大学 大学院工学研究科 生命分子工学専攻 准教授)
馬場 嘉信(名古屋大学 大学院工学研究科 生命分子工学専攻 教授)
柳田 剛(東京大学 大学院工学系研究科 応用化学専攻 教授/九州大学 先導物質化学研究所 教授)
6.用語解説:
(注1)人工嗅覚センサ
化学物質を受容する嗅覚受容体を模した化学センサの集積化デバイス。
(注2)個人認証
個人が間違いなく本人であることを確認すること。
(注3)機械学習
機械(コンピューター)がデータから自動で反復学習し、そこに潜むパターンを発見するデータ分析法。
(注4)PIN認証
Personal Identification Numberの略で個人識別番号と訳される。スマートフォンなどで利用される暗証番号のこと。
(注5)皮膚ガス
体表面から放散される揮発性分子群の総称。
(注6)ppt、ppb
それぞれparts per trillion、parts per billionの頭文字をとって作られた単位で、1兆分の1、10億分の1の比率を表す。
(注7)ppm
parts per millionの頭文字をとって作られた単位で、100万分の1の比率を表す。
(注8)ガスクロマトグラフ質量分析計
気体の成分分析を行う装置。固定相に対する気体の吸着性の差異などを利用して成分を分離し(ガスクロマトグラフィー)、分離された成分の質量を測定(質量分析)することにより、混合物で構成された気体であっても各成分とその濃度を測定できる。
(注9)センサアレイ
センサを基板上に複数並べて配置したもの。
(注10)識別マーカー分子
検体を識別するための特徴となる分子。
(注11)ニューラルネットワークモデル
神経細胞であるニューロンが網目状に連結した神経網を模した情報処理のモデル。
7.添付資料:
図1:人工嗅覚センサを介した呼気センシングによる個人認証の概念図。
図2:(a) ガスクロマトグラフ質量分析により得られた男性3名分の呼気成分マップおよび(b)機械学習により抽出された個人識別の特徴量マップ。呼気成分マップでは共通する情報が多く識別が困難であるが、特徴量マップでは個人に特徴的な成分がハイライトされている。
図3:呼気センシング実験の写真(左図)と使用した人工嗅覚センサ(右図)。
図4:国籍・性別・年齢の異なる6名の呼気センシングにより得られたセンサ応答マップ(左図)と個人識別の特徴量マップ(右図)。
図5:(a) 呼気センシングによる6名対象の個人識別における分類結果。(b) 識別精度と使用センサ数の相関。(c) 識別精度のばらつきと使用センサ数の相関。使用センサ数の増加に伴い識別精度は向上し、識別精度のばらつきが低減されている。
プレスリリース本文:PDFファイル
Chemical Communications:https://pubs.rsc.org/en/Content/ArticleLanding/2022/CC/D1CC06384G