発表のポイント
◆ 低温状態など低エネルギー状態の量子多体ダイナミクスに対する量子計算の大幅な効率化を実現。
◆ 現在〜将来の量子コンピュータで最も標準的な量子アルゴリズム「トロッター分解」で理論上可能な最大限の高速化を達成。
◆ 物性物理・量子化学で重要な基底状態、低温状態などのシミュレーションの高速化に貢献。

低エネルギー状態のダイナミクスを計算する量子アルゴリズムの概念図
概要
東京大学大学院工学系研究科の水田郁助教と、理化学研究所開拓研究所/量子コンピュータ研究センターの桑原知剛理研白眉研究チームリーダーによる研究グループは、量子コンピュータ(注1)を用いて、量子力学に従う多数の粒子(量子多体系)の振る舞いを計算する代表的な手法「トロッター分解(注2)」において、低温下での物質など低エネルギー状態(注3)のシミュレーションが大幅に効率化できることを明らかにしました。こうしたシミュレーションは、量子コンピュータの能力を最大限に活かせる最も有望な応用と考えられています。本研究ではトロッター分解と呼ばれる最も広く使われる手法に対して、誤差を理論的に最小にする新しい基準を導きました。そしてその基準に基づいて低エネルギー状態から計算を始めると、シミュレーションにかかる時間を大幅に短縮できることを示しました。低エネルギー状態は低温状態など物質科学や化学において最も重要な研究対象の一つです。そのため本成果は将来的な量子コンピュータで物質や分子の性質を高精度かつ高速に再現することにつながると期待されます。
本研究は、2025年9月23日(米国東部夏時間)に米国科学雑誌『Physical Review Letters』のオンライン版に掲載されました。
発表内容
〈研究の背景〉
量子多体ダイナミクス(注4)のシミュレーションは物質科学で重要な問題であり、量子コンピュータが従来のコンピュータと比べて優位性を発揮する有望な応用領域となっています。1995年にマサチューセッツ工科大学のセス・ロイド氏によって提案されたトロッター分解は、量子コンピュータを使って高速かつ正確に計算する量子アルゴリズムとして最も歴史の長い手法の一つであり、現在の量子コンピュータでも実装される標準的な手法となっています。さらに、最近の研究ではトロッター分解でより大規模な量子多体系を高速に計算できることも証明され、将来的な量子コンピュータでも有用な手法として注目を集めています。しかしながら、従来の研究では「全ての可能な初期状態」からのダイナミクスを精度よく計算するための解析が行われてきたのに対し、実際の計算では低エネルギー状態など「物理的に興味のある初期状態」を対象とするため、それらは計算コストを過大に評価するものとして問題視されていました。
〈研究内容〉
本研究では、初期状態を「全ての可能な量子状態」ではなく、物理・化学で中心的な興味の対象である「低エネルギー状態」とした場合の量子多体ダイナミクスのシミュレーションに着目しました。まず、トロッター分解の低エネルギー状態に対する誤差の解析を行い、初期状態のエネルギーが小さいほどそれに比例して量子アルゴリズムの誤差の上限も小さくなることを証明しました。一般に量子アルゴリズムの誤差が小さくなるほど所望の精度で計算するための計算時間が短くなることが知られており、本研究の誤差解析により低エネルギー状態の量子多体ダイナミクスのシミュレーションに必要な量子回路の深さ(=計算時間)を大幅に削減できることが明らかとなりました(図1)。なお2021年〜2024年の先行研究で低エネルギー状態に対する高速化の可能性が示唆されていましたが、本成果はそれらの適用範囲・計算時間を飛躍的に改善しています。加えて、本成果は低エネルギー状態に対してこれ以上改善できないほど理論上可能な最大限の高速化に成功していることを示しました。

図1:初期状態と量子アルゴリズムの計算時間の関係
多くの問題においてシミュレートしたい状態は低温状態などエネルギーの小さい状態である(左図)。より低温であるなどそのエネルギーが小さいほど量子コンピュータの計算時間を大幅に削減できる(右図)。
〈研究の意義と展望〉
現在および将来の量子コンピュータの両方で汎用的な量子アルゴリズムであるトロッター分解が、実用上でも重要な低エネルギー状態に対して大幅に高速化されるということを示した本成果は、量子コンピュータの物質科学への応用を加速する一歩となります。またトロッター分解は量子アルゴリズムの中でも特に長い歴史があり、複数積公式など改良された派生手法を多数持つことも特徴です。本成果による低エネルギー状態に対する効率化がそれらの手法に波及し、より高速かつ高精度な量子計算手法の確立に寄与すると期待されます。
発表者・研究者等情報
東京大学 大学院工学系研究科
水田 郁 助教
兼:理化学研究所量子コンピュータ研究センター 客員研究員
理化学研究所 開拓研究所/量子コンピュータ研究センター
桑原 知剛 理研白眉研究チームリーダー
論文情報
雑誌名:Physical Review Letters題 名:Trotterization is Substantially Efficient for Low-Energy States
著者名:Kaoru Mizuta*, Tomotaka Kuwahara
DOI:10.1103/q87n-5xhz
URL:https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/q87n-5xhz
研究助成
本研究は、JSTさきがけ「非平衡量子系の物理に基づく汎用大規模量子アルゴリズム(課題番号:JPMJPR235A)」、JSPS科研費「時間依存する非平衡量子系の最適な量子アルゴリズムの構築(課題番号:JP24K16974)」、JST ムーンショット型研究開発事業「誤り耐性型量子コンピュータにおける理論・ソフトウェアの研究開発(課題番号:JPMJMS2061)」、理研白眉研究プロジェクト、JSTさきがけ「量子多体理論を用いた量子計算機の高速アルゴリズムの開発(課題番号:JPMJPR2116)」、JST ERATO「沙川情報エネルギー変換プロジェクト(課題番号:JPMJER2302)」、JSPS科研費「中規模量子コンピュータによるセキュアな分散型量子計算の基盤創出(課題番号:JP24H00071)」の支援により実施されました。
用語解説
(注1)量子コンピュータ
量子力学に従って動作する量子ビットによって構成されたコンピュータ。量子重ね合わせや量子もつれなど量子系特有の性質を用いることで素因数分解など従来の古典計算機では難しい問題を高速に解けると期待されている。
(注2)トロッター分解
シミュレーションの過程を小刻みに分解しその一つ一つのステップを量子コンピュータで実装することで量子多体ダイナミクスを高速に計算する量子アルゴリズム。現在の中規模な量子コンピュータでも実装される最も標準的な量子アルゴリズムであると同時に、将来的な大規模誤り耐性量子コンピュータにおいても有用性が期待される手法である。
(注3)低エネルギー状態
非常に小さなエネルギーを持つ物質の量子状態。物質が最も安定している状態や極低温における状態の性質を決める上で最も主要な役割を果たす状態である。
(注4)量子多体ダイナミクス
量子力学に従う多数の原子、イオン、電子などの集団の時間変化の様子。固体物質や化学分子などの振る舞いを決定する重要な性質であるが、従来のスーパーコンピュータでシミュレートするには通常指数関数的に大きな計算時間が必要と考えられている。
プレスリリース本文:PDFファイル
Physical Review Letters:https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/q87n-5xhz
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