プレスリリース

“酸性陰イオン”が切り拓く分子触媒開発の新天地 ―陰イオン=塩基という化学的常識への挑戦―

作成者: Public Relations Office|Jul 3, 2025 5:00:00 AM

発表のポイント

「陰イオン」と「酸性」という相反する性質を同時に示す有機分子を開発しました。一般に負電荷を有する酸性分子は不安定ですが、本研究チームが開発した陰イオンは高い酸性度と安定性を両立しています。
今回開発した陰イオンを陽イオン性の遷移金属触媒と組み合わせることで、イオン対が協奏的に働く多機能触媒の簡便な構築に成功し、陰イオンの酸点が分子を見分けて選択的に反応を加速する新しい触媒機構を実現しました。
本研究では、陰イオン=塩基性という常識を覆すのみならず、分子触媒に分子認識能を簡便に付与する新しい手法を確立しました。これにより精密な分子変換が可能になり、次世代創薬や材料開発への貢献が期待できます。

 

今回開発した酸性陰イオンの概略図

 

概要

東京大学大学院工学系研究科の野崎京子教授、岩﨑孝紀准教授(研究当時、現:九州大学大学院工学研究院教授、東京大学大学院工学系研究科客員研究員)、萬代遼大学院生の研究グループは、陰イオンでありながら強い酸性(注1)を示す分子を開発し、これを遷移金属触媒(注2)と組み合わせることで多機能触媒(注3)を簡便に合成できることを示しました(図1)。陰イオンは電子が余っている状態であり、塩基性(=電子を与える性質)を示します。一方で電子を引き抜く性質をもつ酸性分子は、本質的に陰イオンとは相容れません。

 

図1:本研究の概要

 

本研究では、ホウ素原子(注4)に着目した巧みな分子設計により、強い酸性を示す安定陰イオンの合成に成功しました。本分子を、正電荷をもつ遷移金属触媒の対アニオン(注5)に用いることで、対アニオンの酸性を生かした触媒システムを構築しました。従来の遷移金属触媒の対アニオンは、もっぱら塩基として用いられてきたのとは対照的です。この研究は、遷移金属触媒に対して分子認識能(注6)を簡便に付与し、小分子医薬品の合成のような精緻な小分子変換を可能にすると期待されます。

なお、本研究成果は日本時間71日に独化学会誌「Angewandte Chemie International Edition」のオンライン版で公開され、注目度の高い論文として Hot Paper に選出されました。

 

発表内容

〈研究の背景〉

小分子医農薬品や高分子材料といった化成品を合成するうえで、遷移金属触媒は必要不可欠な技術です。遷移金属触媒は、中心金属の選択や配位子(注7)の設計により、精緻に制御された分子変換を可能にします。しかしながら、これまでイオン対(注8)から成る遷移金属触媒の対アニオンに着目した研究は限定的でした。アニオン(=陰イオン)は本質的に電子を余剰に含んでいる状態であり、これまでの触媒への応用はすべて塩基としての性質に基づいていました。それゆえに触媒の適応範囲が限定されていたほか、強い塩基性を示す対アニオンが金属に強く結合することで、触媒の活性を低下させることが問題になっていました。

もし陰イオンでありながら酸性を示す安定分子が合成できれば、このような現状を打破することができます。酸性陰イオンならば、塩基性の陰イオンでは相互作用できなかった分子の変換反応に適用できるほか、金属を被毒しません。一方で、電子豊富な陰イオンに、電子を引き抜く性質をもつ酸性点を導入することは化学的直観に反しており、困難だと考えられていました。実際に、遷移金属触媒に酸性の陰イオンを応用した例は今までありませんでした。

 

〈研究の内容〉

研究グループは、ホウ酸アニオンに酸性を示すホウ素官能基を導入することで酸性陰イオンBBcatを合成し、その構造を単結晶X線構造解析(注9)により明らかにしました(図2)。BBcatに塩基性のホスフィンオキシドを加えてNMR測定(注10)を行うことにより、BBcatが陰イオンでありながら強い酸性を示すことを実験的に示しました。BBcatは熱的に安定であり、固体として単離可能なほか、正電荷を有する遷移金属錯体の対アニオンとして利用できることを実証しました。このように、強い酸性と触媒応用ができるほどの熱的安定性を両立する分子の合成は、世界で初めての例です。

 

図2:今回開発した分子BBcatの構造とコンセプト

 

本研究で合成されたBBcatをイリジウム(注11)触媒と組み合わせ、ベンゼン環(注12)のC–H官能基化(注13)を検討しました。遷移金属触媒によるベンゼン環のC–H官能基化は現代の有機合成化学において不可欠なツールですが、2つ以上の置換基(注14)をもつベンゼン環のC–H官能基化は難しいとされてきました。実際に従来のイリジウム触媒は、2つ以上の置換基をもつベンゼン誘導体の重水素化(注15)に対して高い活性を示しません。これに対し、今回開発したBBcatをイリジウム触媒と組み合わせると、従来の触媒に比べ8.2倍反応速度が増し、大幅な活性の向上が確認されました(図3)。興味深いことに、BBcatによる活性の向上は、基質(注16)の塩基性に強く依存することから、BBcatがその酸点で分子を見分けて選択的に反応を触媒していると考えられます。イオン対に働く静電相互作用(注17)は、認識された基質を遷移金属触媒に近接させ、反応を加速していると推察されます。このことは陽イオン性の分子触媒に酸性の陰イオンを加えることで、分子を見分ける能力を簡単に付与できることを示しています。

 

図3:分子BBcatと遷移金属触媒を組みわせることで実現された選択的な活性向上

 

〈今後の展望〉

本研究で実現された分子BBcatの合成は、陰イオン=塩基性という固定観念を打ち破る一例として非常に画期的な分子デザインを示しました。イオン性の分子は、本研究で検討された遷移金属触媒のみならず分子触媒全般で用いられる汎用の分子ですが、陰イオンはもっぱら塩基として用いられてきました。これに対し本研究は、分子触媒の対アニオンに導入された酸点が基質を認識し、選択的な分子変換反応を実現した初の例を示しました。これは、触媒設計に新たな指針をもたらす成果といえます。とりわけ、分子認識を可能にする多機能触媒の開発には、これまで複雑な分子設計や多段階の合成が必要とされてきましたが、陽イオンと陰イオンをただ混ぜるだけという本研究の戦略を用いると、酸性陰イオンを添加するだけで触媒に分子認識能を付与できます。近年複雑性が増している小分子医薬品やその他化成品を合成するうえで、反応性の緻密な制御を実現する分子触媒の開発は重要性を増しており、本研究はこうした課題に解決策を与え広く波及するものと期待されます。

 

発表者・研究者等情報

東京大学大学院工学系研究科

 野崎 京子 教授

 岩﨑 孝紀 研究当時:准教授

  現:九州大学大学院工学研究院 教授、東京大学大学院工学系研究科 客員研究員

 萬代 遼 博士課程

 

論文情報

雑誌名:Angewandte Chemie International Edition

題 名:Stable Yet Strongly Lewis-Acidic Anions Enabling Cooperative Catalysis with Cationic Transition-Metal Complexes

著者名:Ryo Mandai, Takanori Iwasaki*, Kyoko Nozaki*

DOI10.1002/anie.202503322

URLhttps://doi.org/10.1002/anie.202503322

 

研究助成

本研究は、日本学術振興会(JSPS) 科研費基盤研究(B)「触媒機能を有するアニオン性分子の創成と静電的相互作用による触媒機能の集積化(課題番号:JP23H01955JP24K26648)」(代表:岩﨑 孝紀)、学術変革領域研究A:デジタル化による高度精密有機合成の新展開(JP21A204)「触媒制御によるカルボニル基の水素化の化学選択性逆転と反応機構の解明(課題番号:JP22H05340)」、「触媒制御によるカルボニル化合物の反応性の逆転(課題番号:JP24H01061)」(代表:岩﨑 孝紀)、特別研究員奨励費「ルイス酸性弱配位アニオンによる新規触媒作用の開拓(課題番号:JP23KJ0761)」(代表:萬代 遼)などの支援により実施されました。

 

用語解説

(注1)酸性
酸性の化合物は大きく分けて2種類が知られており、水素イオン(H+)を与えるものをブレンステッド酸、非共有電子対などの電子を受け取るものをルイス酸という。本研究では、酸素原子などの非共有電子対を受け取り相互作用するルイス酸を酸点として用いた。

(注2)遷移金属触媒
遷移金属とは周期表で第3族元素から第11(12)族元素の間に存在する金属元素の総称で、本研究で用いられているイリジウムのほか代表的なものに鉄、ニッケル、コバルトなどがある。触媒とは、反応前後において自らは変化せず反応を促進する物質。遷移金属は触媒活性をもつものが多く、こうしたものを遷移金属触媒という。
2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治教授(名古屋大学)、2010年にノーベル化学賞を受賞した鈴木章教授(北海道大学)、根岸英一教授(パデュー大学)は遷移金属触媒を用いた研究が評価された。

(注3)多機能触媒
複数の機能をもった触媒。本研究の触媒は、分子認識能(=分子を見分ける能力)と分子変換能(=分子を異なる分子へ変換する能力)を両立する多機能触媒といえる。

(注4)ホウ素原子
原子番号5の元素。元素記号はB。中性の三配位ホウ素は一般に強い酸性を示す。一方で四配位ホウ素は比較的安定に存在する陰イオンである。

(注5)対アニオン
アニオンとは陰イオンのこと。イオン性の化合物はカチオン(=陽イオン)とアニオン(=陰イオン)から成るが、陽イオンから見た陰イオンを対アニオンと呼ぶ。ここでは陽イオンが遷移金属触媒であり、BBcatはその対アニオンとなる。

(注6)分子認識能
分子を見分ける能力。BBcatは酸性の部位によって、塩基性の分子と相互作用し、認識することができる。

(注7)配位子
金属に非共有電子対を与えて配位結合する分子やイオンのことをいう。一般に遷移金属触媒は遷移金属と配位子の組み合わせから成り、触媒開発は主に配位子の設計に重きが置かれてきた。

(注8)イオン対
陽イオンと陰イオンが溶液中で接近して作る会合体のこと。

(注9)単結晶X線構造解析
単結晶にX線を照射し、その回折から構造を解析する方法。分子の形状に関する情報を得ることができる。

(注10)NMR測定
NMR(核磁気共鳴)とは、原子核に磁場を与えて電磁波を照射し、その吸収量を測定することで物質の構造を解析する手法。有機化合物の構造解析や分子間の相互作用の定量に用いられる。

(注11)イリジウム
原子番号77の元素。元素記号はIr。遷移金属の1つであり、水素分子の付加やC-H結合の切断に触媒として多用される。

(注12)ベンゼン環
ベンゼンは化学式C6H6で表される芳香族炭化水素で、ベンゼン環とはベンゼンに含まれる6個の炭素原子からなる正六角形の構造を指す。

(注13)C–H官能基化
有機化合物に含まれるC-H結合を切断して置換基(後述)を導入する反応のこと。安価な炭化水素から複雑かつ付加価値の高い化合物を直接得る方法として注目されている。

(注14)置換基
原子団として区別される有機化合物の部分。「2つの置換基をもつベンゼン誘導体」とはベンゼンの6つある水素のうち、2つを別の原子団に置き換えたものを指す。

(注15)重水素化
化合物に含まれる水素原子(H)を、同位体である重水素原子(D)に置き換える反応のこと。分子の代謝安定性を上げる方法として近年創薬分野で注目されている。

(注16)基質
触媒において、触媒の作用を受けて化学反応を起こす分子のこと。

(注17)静電相互作用
正電荷(+)と負電荷(-)の間に働く引力。静電相互作用のおかげでイオン対は互いに近接した状態を保っている。

 

 

 

プレスリリース本文:PDFファイル

Angewandte Chemie International Edition:https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/anie.202503322