プレスリリース

再生医療向け幹細胞培養のプロセス設計をデジタル化 ―数理モデルに基づくデザインスペースを実験的に検証―

作成者: Public Relations Office|May 9, 2025 3:00:35 AM

発表のポイント
◆ 再生医療の重要な細胞源である間葉系幹細胞の培養プロセスを対象に、品質を満たす運転条件である「デザインスペース」を決定するための新規アルゴリズムを開発しました。
◆ 物質収支に基づく物理モデルと、モデルパラメータの統計学的な予測区間を用いることで、細胞増殖の動的特性と変動性を同時に考慮したデザインスペースを特定し、その妥当性を実験的に検証することに成功しました。
◆ 本アルゴリズムは、シミュレーションを通じたデジタル空間でのデザインスペース決定を可能にし、迅速かつ効率的なプロセス設計や幹細胞製品の上市に貢献します。

デザインスペース決定のための新規アルゴリズムと実験的検証の流れ

概要
東京大学大学院工学系研究科化学システム工学専攻の杉山弘和教授と林勇佑助教、廣納敬太大学院生(研究当時)らによる研究グループは、名古屋大学大学院創薬科学研究科の加藤竜司准教授、大阪大学大学院工学研究科の紀ノ岡正博教授らとの共同研究により、再生医療向け間葉系幹細胞(Mesenchymal stem cell: MSC)(注1)の培養プロセスを対象に、品質を満たす運転条件であるデザインスペース(Design space: DS)(注2)を決定するための新規アルゴリズムを開発し、その実験的検証に成功しました。近年、製薬産業ではDSに立脚した医薬品製造が重要視されています。しかし、MSCの培養プロセスは生きた細胞を対象とする複雑現象であり、従来の実験的探索に依存したDSの特定が非常に困難でした。一方、MSC培養プロセスのDS決定において、数理モデルを用いた手法が有用であることが明らかにされてきましたが、得られたDSの実験的な検証が不十分であるという問題がありました。そこで本研究では、物質収支に基づく物理モデル(注3)と、モデルパラメータの統計学的な予測区間(注4)を用いることで、細胞増殖の動的特性と変動性を同時に考慮したDS決定を可能にする新たなアルゴリズムを開発しました。さらに、シミュレーションを通じて特定されたMSC培養プロセスのDSの妥当性を実験的に検証することに成功しました。本アルゴリズムにより、デジタル空間においてDSを特定することができ、試行錯誤的な実験に依存しない迅速かつ効率的なプロセス設計や幹細胞製品の上市への貢献が期待されます。
本研究成果は、2025年5月8日(日本時間18時)に学術誌「Communications Biology」のオンライン版(オープンアクセス)で公開されました。

発表内容
① 研究背景

脊髄損傷等の難治性疾患に対する根治的治療に用いられるMSCの需要が高まっています。近年、製薬産業では品質管理におけるクオリティ・バイ・デザイン(Quality by Design)(注5)が推奨されており、特にDSに立脚した医薬品製造が重要視されています。従来、実験的な検討を通じてDSの特定が試みられてきました。しかし、MSC培養プロセスのような生きた細胞を対象とする複雑現象では、細胞増殖の動的特性や変動性を同時に解析することは容易ではなく、実験的探索に依存したDSの特定が非常に困難でした。一方、MSC培養プロセスのDS決定において、数理モデルを用いた手法の有用性が示されてきましたが、得られたDSの実験的な検証が不十分であるという問題がありました。以上の理由から、数理モデルを用いた手法の適用範囲を拡張しつつ、シミュレーションを通じて得られたDSを実験的に検証するようなデジタル技術を活用した新しい方法論が求められていました。

② 研究内容と成果

本研究では、物質収支に基づく物理モデルと、モデルパラメータの統計学的な予測区間を用いることで、細胞増殖の動的特性と変動性を同時に考慮したDSを特定可能な新規アルゴリズムを開発し、その妥当性を実験的に検証することに成功しました(図1)。はじめに、既往の物理モデルを用いて、初期実験のデータを再現するような基本となるパラメータセットを決定しました。次に、プレ実験のデータを用いて細胞増殖速度に関するパラメータを再推定し、モデルの更新を行いました(図2a)。モデルの予測精度は、検証実験のデータを用いて確認されました(図2b)。さらに、再推定後のパラメータの統計学的な予測区間を計算し、その上端と下端の値をシミュレーションの入力値とすることで、細胞増殖の上限と下限をそれぞれ予測しました(図2c)。加えて、確率論的なシミュレーションを通じて細胞増殖の動的変動を予測し(図2d)、シミュレーション結果が細胞数とコンフルエンス(注6)に関する品質要件を同時に満たすような確率を計算しました。計算の結果、その確率が90%以上となるような播種密度と培養終了日の組み合わせをDSと定義しました(図3a)。最後に、予測結果と検証実験の結果を比較することで、得られたDSの妥当性を検証しました(図3b)。その結果、DSに含まれると予測された12の培養条件のうち、実際、11条件において品質を満たすことが実験的に確認されました。本アルゴリズムの妥当性は、異なる実験実施者から得られたプレ実験データを用いた場合や、確率を50%70%と指定した場合においても実証され(図4)、本成果の適用可能性が示唆されました。

図1:デザインスペース決定のための新規アルゴリズムと実験的検証の流れ
(発表論文から抜粋・編集・翻訳)

Exp 2A、2B、2Cは、異なる3名の実験実施者A、B、Cによってそれぞれ行われた。
CDSは真陽性(予測通り品質を満たした)、 IDSは偽陽性(予測に反して品質を満たさなかった)、 IDSは偽陰性(予測に反して品質を満たした)、 CDSは真陰性(予測通り品質を満たさなかった)を表す。


図2:モデルパラメータの再推定と予測区間を用いた計算結果の一例
(発表論文から一部抜粋・編集・翻訳)

a. 再推定前後のモデル予測精度 b. 再推定後のモデル予測精度の検証
c.
予測区間を用いたシミュレーション d. モンテカルロシミュレーション

黒の実線は再推定前の予測値、赤の点線と橙の実線はともに再推定後の予測値、緑の実線は予測の上限値、青の実線は予測の下限値を表す。NRMSEは正規化した二乗平均平方根誤差を表し、0%に近いほど高い精度を示す。


図3:デザインスペースの決定と実験的検証(発表論文から抜粋・編集・翻訳)

a. シミュレーション結果から得られたデザインスペース b. 実験的検証の結果黒の境界線で囲まれた領域が確率90%のデザインスペース。緑丸は真陽性(予測通り品質を満たした)、赤丸は偽陽性(予測に反して品質を満たさなかった)、黄丸は偽陰性(予測に反して品質を満たした)、青丸は真陰性(予測通り品質を満たさなかった)を表す。

 


図4:異なる実験実施者と確率を対象としたデザインスペースの実験的検証の結果
(発表論文から抜粋・編集・翻訳)
Exp 2A、2B、2Cは、異なる3名の実験実施者A、B、Cによってそれぞれ行われた。黒の境界線で囲まれた領域が指定された確率のデザインスペース。色丸の凡例は図3と同様。

本アルゴリズムは、MSCの由来ドナーや生体組織が異なる場合や、適切な物理モデルを採用することで、使用培地や培養スケール等の培養環境が変更された場合にも幅広く適用可能であると考えられます。また、本研究で用いた数理モデルやシミュレーションは、MSC培養プロセスの基礎研究からプロセス開発、商用生産までの幅広い場面での応用が期待されます。

③ 今後の展望
研究では、MSC培養プロセスを対象に、動的特性と変動性を同時に考慮したDSを決定可能にする新規アルゴリズムを開発し、その実験的検証に成功しました。本研究により、試行錯誤実験に依存しない、数理モデルやシミュレーションを活用したMSC培養プロセス設計が可能になりました。今後は、さらなるモデル化を進め、より広範な品質要件を取り入れたDSの特定を目指します。本研究を通じて、培養プロセスのより高度な設計や制御、ひいては幹細胞プロセスにおけるデジタル技術のさらなる活用に貢献していきます。

発表者・研究者等情報
京大学 大学院工学系研究科 化学システム工学専攻
  納 敬太 研究当時:博士課程
  林 勇佑 助教
  アベクーン ウドゥガマ イズル 研究当時:特任助教
  ガデム モハメッド ラミ 特任研究員
  杉山 弘和 教授

名古屋大学
 大学院創薬科学研究科 基盤創薬学専攻
  田中 健二郎 助教
  加藤 竜司 准教授

 大学院医学系研究科 
  竹本 悠人 研究当時:特任助教

大阪大学 大学院工学研究科 生物工学専攻
  紀ノ岡 正博 教授

論文情報
雑誌名:Communications Biology
題 名:Determination and validation of design space for mesenchymal stem cell cultivation processes using prediction intervals
著者名:Keita Hirono, Yusuke Hayashi, Isuru A. Udugama, Mohamed Rami Gaddem, Kenjiro Tanaka, Yuto Takemoto, Ryuji Kato, Masahiro Kino-oka, Hirokazu Sugiyama* * 責任著者
DOI10.1038/s42003-025-08063-2
URL:https://www.nature.com/articles/s42003-025-08063-2

研究助成
本研究は、AMED再生医療・遺伝子治療の産業化に向けた基盤技術開発事業(QbDに基づく再生医療等製品製造の基盤開発事業)の「ヒト細胞加工製品の製造に向けたQbDに基づく管理戦略の構築と新たな核となるエコシステムの形成(課題番号:JP20be0704001)」(代表:紀ノ岡正博)の研究として行われたものです。

用語解説
(注1)間葉系幹細胞(Mesenchymal stem cell: MSC):生体内のさまざまな組織に存在する幹細胞で、自己複製能をもち、骨や軟骨、脂肪などへの分化能や免疫調整能を持つ。再生医療の重要な細胞源として期待されている。

(注2)デザインスペース(Design space: DS):品質を確保することが立証されている入力変数と工程パラメータの多元的な組み合わせ。医薬品規制調和国際会議の品質に関するガイドラインQ8(R2)で定義されている。

(注3)物理モデル:物理・化学・生物学的な原理に基づいて記述されるモデルを指す。一般的に微分方程式を用いて表現され、対象の挙動を十分に理解している場合には、高い信頼性と優れた外挿性を持つ。ただし、対象の理解が不十分な場合、物理モデルの構築自体が難しくなることがある。

(注4)予測区間:サンプリングされた母集団から、将来の観測値がある確率で含まれる区間を推定したものを指す。

(注5)クオリティ・バイ・デザイン(Quality by Design):事前の目標設定に始まり、製品及び工程の理解並びに工程管理に重点をおいた、立証された科学及び品質リスクマネジメントに基づく体系的な開発手法。医薬品規制調和国際会議の品質に関するガイドラインQ8(R2)で定義されている。

(注6)コンフルエンス:接着した細胞が培養容器の培養面(底面)に占める割合のことを指す。例えば、100%コンフルエンスとは、培養面全体が細胞で完全に覆われている状態を意味し、50%コンフルエンスはおよそ半分の面積が覆われている状態を指す。MSCの場合、一般に8090%コンフルエンスに達した時点で、継代や培養終了を行うことが推奨されている。

 

プレスリリース本文:PDFファイル
Communications Biology:https://www.nature.com/articles/s42003-025-08063-2