【退官記念随筆】田中 正人(産業機械工学専攻 教授)

退官記念随筆

研究の想い出

工学系研究科産業機械工学専攻 教授
田中 正人

 

最終講義の主題を「安心設計学の夢」として、「セキュリティ、トライボロジー、ロータダイナミクス」という副題を添えたところ、こんなに文字数が多いと立看板の製作費が嵩みますよとイエローカードを出されました。このカタカナ文字はすべて私がこれまでに関わった学問・技術の領域であり、どれかを外すということも難しい。そこでこのままとしましたが、多くの先達、同僚、後輩がそれぞれ一つの専門領域に打ち込み、泰斗として名を成しているのに比べると、少しみっともなく見えることは確かです。

 

私の学位論文は、すべり軸受でささえた回転機械の振動抑制に関わるものであり、ロータダイナミクスの分野の研究です。ロータダイナミクスは文字通りには回転体の動力学であり、タービン、コンプレッサなど回転機械の振動問題が対象で、振動と騒音の少ない回転機械の設計に貢献する学問・技術と考えればよいでしょう。大きな振動を発生して機械自身と建屋を破壊し、周辺の人間にも危害が及んだ事故は内外で過去に多々あり、多くは出力、サイズ、回転速度などをステップアップした高性能機が開発された時点で発生しています。工場内で回転試験中にロータが4つに割れて飛散し、そのうち一つが1500m離れた山中に、もうひとつは800m離れた海中で発見された蒸気タービンのロータもその一つです。このロータの回転のエネルギーは、16両編成の新幹線列車が持つエネルギーと等しく、バランスがわずかでも崩れるとそのエネルギーが振動という形で放出され、周囲に猛烈な被害を及ぼします。日本のみならず世界の技術者は、このような手痛い経験を出発点に、その都度新たな学問的地平を切り拓き、それを実用的な設計技術に結晶させる努力を続けてきました。日本を含めた先進工業国がこの分野の学問技術を大きく発展させた70年代からの30年間に、私自身が偶然のことながら丁度行き当たり、多くのエンジニアの方々と苦闘する経験を持ち得たということは、極めて幸運な巡り合わせであったと感じます。この世界に関わるようになったのは、学位論文の研究を開始するにあたって、極めてリスキーな研究目標を設定し、幾多の壁を乗り越えて何とかやり遂げ、研究の面白みを実感できたということがきっかけでした。リスクの大きい研究はリターンも大きく、そこに果敢にチャレンジするには若いがゆえの無謀さが時に必要なこともあるようです。

 

回転機械の振動を抑制するために最も重要な役割を果たすのは回転軸をささえる軸受であり、振動の研究が発端となってすべり軸受のトライボロジーの研究に新しく興味をもつようになりました。トライボロジーというのは、平たく言えば、摩擦、摩耗、潤滑についての学問技術ですが、あるイギリス人の知恵者が、この領域に新しい生命力、活力を呼び込もうとして、「摩擦する」というギリシャ語の言葉をもとに1966年に「トライボロジー(Tribology)」という新しいネーミングを創造しました。これが大当たりして、トライボロジーがあらゆる産業に必要な基盤技術として世に広く認められるようになるきっかけとなりました。すべり軸受の性能を精度良く予測する新しい潤滑モデルを開発して軸受のトライボロジー設計に活かす研究に取り組みましたが、開始した当初は当時使用されていた軸受材料が優れたものであったため、旧来の理論モデルに基づく精度の低い設計で何も問題がなく、なぜこんな無駄な研究を始めるのかという指摘を受けました。しかし年月が経つうちに軸受の使用条件がどんどん厳しくなり、開発した新しい理論モデルは最近のすべり軸受設計には必須のものとして使用されつつあります。大学の工学部では、産業技術がたった今必要であるとして産業界自身が進めている研究と競合する形ではなく、産業界の当面の視野にはない10年あるいは20年先に必要となるであろう技術を予測して、その基礎を与える研究を行なうべきと思います。

 

これらロータダイナミクス、トライボロジーの分野で産業界のエンジニアの方々と懇談する機会に、各社それぞれにトラブル事例の記録が多数あることがわかり、それを持ち寄って分析、共有するための活動の立ち上げに参画しました。各社ともトラブル事例を恥として公開することを逡巡する企業文化が伝統的でありましたが、それを敢えて公開し、情報を共有することができれば、同じようなトラブルが異なる機械、異なる事業所で再び発生するということを防止できるだけでなく、新しい機械の設計を開始するに際して同様のトラブル発生を回避することが可能になり、社会的に見ればこんな良いことはありません。このような活動を推進するには、中立的な立場にある大学の研究者の役割が大きく、求められれば積極的に引き受けることが大学人の社会的責任であり、またそうすることによって自己の学問の幅を広げる良い機会にもなり得たと思います。

 

これらトラブル事例解析から、ロータダイナミクス、トライボロジーに限らず安全と安心を保証する安心設計学、セキュリティの確立の必要性を思いつき、ここ10年ほど苦闘していますが、退官を目前にして道なお遠しの感があります。セキュリティを短絡的にとらえると防犯にしかなりませんが、これだけでなく、労災事故低減やPL対応、自動化システムのヒューマンエラー対応、サイバー空間での犯罪予防、知的財産権侵害対応、高齢者・障害者の自立支援対応など広範な領域でセキュリティリッチなシステム開発・メンテナンスのための研究が要求されるようになり、21世紀はセキュリティの時代と言えましょう。

 

研究は孤独に耐えて論理的な思考を弛まず継続する作業が必要ですが、社会から孤立することなく、関連する分野の人々と積極的に広く交わることが大事であると思います。目標を高く掲げて、幾多の挫折に挫けることなく粘り強く継続すれば、必ず報われる時がくると信じます。

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(日本語のみ)