【退官記念随筆】龍岡 文夫(社会基盤工学専攻 教授)

退官記念随筆

30年を振り返って

工学系研究科社会基盤工学専攻 教授

龍岡 文夫

 

筆者は、博士課程を卒業後27歳で直ちに建設省土木研究所(現独立行政法人土木研究所)千葉支所で働き出した。僅か4年強でも、良くも悪くも土研での経験は今日まで強烈に残っている。その後、東京大学生産技術研究所に移った。31歳から49歳という研究者・教育者として自己形成に最も重要な時期に生研でお世話になったので、現在の教育者・研究者の基盤は生研時代に形成された。その後、本郷に移り9年弱経て東大を去る。

筆者は本郷の改築なった一号館に移るまで、偶然ではあるが常に劣悪な生活環境に居た。最初に勤務した土研千葉支所の橋梁構造部振動研究室は、当時土研の中で最も住居環境が悪い研究室であった。何しろ戦前からの木造建物であり、自分の机の前の窓は窓枠とずれていて、冬になると隙間をガムテープで目張りをしなくては寒風が机の上から自分に向かって吹き付けた。研究室は、構成員全員が仕切の全くない同じ部屋に居たので、会話を含めてプライバシーはゼロであった。所属研究室には、自分の専門である地盤工学の研究者はおらず、その当時本州四国連絡橋や東京湾湾岸道路・横断道路等に関連して地盤関係の調査研究が必要であったが、研究室には地盤関係の実験装置が全くなかったので、ゼロから地盤工学実験室を構築した。

 

土研時代の最大の成果と問われれば、博士号を持っていて周囲が期待しているのにも関わらず、工事や設計の現場からの質問や課題に対して、自分がまともに応えられないことを知ったことである。それでも、結局色々研究成果は上がったと思っている。それは、現場からの問題提起に対して出来るだけ応えるように、また即答だけではなく長期的に基礎から研究して答が出るように努力したことが良かったのかもしれない。つまり、土研にはそれなりに生きた工学があった。博士課程では、砂の変形特性と言う極めて基礎的な研究を行っていた。そのまま大学で同じテーマで研究を継続していたら、あれこれ細かい所に工学的な位置づけのないまま突入し、暗闇の中を模索していたかもしれない。土研に就職しても、時として大学時代の基礎的な研究が忘れられないで、自宅で夜と週末あれこれと思索し計算し論文を書いて、月曜日の朝疲れ切っていたことが度々あった。これは、今から思うとエネルギーの間違った使い方であったと反省している。

 

土研には大学的な基礎研究に憧れている研究者も居たし、その一方で経験主義の技術研究者も結構居た。経験主義の技術研究者は、自己の経験にだけ基づいて判断を下し、その判断の根拠を他者に示さないので、新参者の筆者は一緒に仕事をしても大変苦労した。一方、同じ研究室の研究員は全て異なった大学の出身であり、この点で新鮮な経験であった。土研では、筑波移転の準備をしたが、結局筑波の新しい土研には一時も勤務しなかった。

 

それから生研であるが、六本木にあったその建物は2・26事件で反乱将兵が出発した兵舎であり、東京で最も古い鉄筋コンクリート構造物であった。何しろ狭く、古かった。助教授であった私と助手及び二名の技官と同じ部屋に居た。夕方になると冷房が必ず停止し、時に日中の真っ盛りに冷房が停止し、心頭滅却すれば火も涼しい、と言うことを唱えながら机に向かったが、やはりある温度以上では思考が停止した。冬は寒かった。豪雨の日は、建物外壁から部屋の内部に浸水をしてきてコンピュータに雨漏りがするか、ヒヤヒヤであった。地震の時は、建物が異常に揺れた。それでも、土研での戦前からの木造と比較するとマシであると自分に言い聞かせた。与えられた実験室には、自分の研究に適する実験装置は殆ど無く、有る程度出来上がった土研の実験室を去り、またゼロから出発であった。また、学生も多く居て研究資金が潤沢であった訳ではなかった。それでも、生研では大いに研究成果が上がったと思っている。生研では、異なる専門間の交流が比較的自由に出来たし、筆者にとっては機械部品を製作してもらった試作工場は素晴らしかった。また、佐藤剛司氏と言う機械の設計・製作の高い技能を持った方が同じ研究室に居られたことは素晴らしかった。学生との距離は非常に近かった。

 

さて、本郷での生活である。元々学生時代に生活した研究室に戻って来たわけであり、土研に移った時と比較すると実験室環境は遙かに整っていた。また、工学部一号館の改築中に移った訳であるので、東畑教授の努力で実験用の中型振動台も導入されていた。しかし、生研で開発した地盤工学関係の試験装置がないと自分の研究が思ったように出来ない状態になっていたので、生研で開発した試験装置を新たに系統的に導入する必要があった。この時、生研の試作工場の有り難み味が良く理解出来た。生研での実験室は、現在まで古関教授と佐藤助手の努力で筆者の時代よりも発展している。

 

さて、本郷での生活である。元々学生時代に生活した研究室に戻って来たわけであり、土研に移った時と比較すると実験室環境は遙かに整っていた。また、工学部一号館の改築中に移った訳であるので、東畑教授の努力で実験用の中型振動台も導入されていた。しかし、生研で開発した地盤工学関係の試験装置がないと自分の研究が思ったように出来ない状態になっていたので、生研で開発した試験装置を新たに系統的に導入する必要があった。この時、生研の試作工場の有り難み味が良く理解出来た。生研での実験室は、現在まで古関教授と佐藤助手の努力で筆者の時代よりも発展している。

 

筆者はこの3月末で58歳である。少々早く本郷を去るのは、決して本郷での生活が嫌いなためでもなく、研究と教育が上手く行っていないからでもなく、他に不都合があるからでもない。しかし、総合的に見て去った方が良いし、筆者も新たな場所で心機一転、本郷での生活をまだ続けたいと言う悔いを残しながら、新しい場所で再出発する方が良いと判断した。新たに4月から勤務する大学でも、自分の研究・教育目的に即した実験室を新たに作ろうと思っている。

 

現在、最終講義の準備であれこれ総括をしているが、改めて一人で研究教育をしてきた訳ではないことを痛感している。また、有意義な工学的な研究をするには、結局1)工学的課題の認識、2)異なる専門の技術者・研究者との自由な交流と相互刺激、3)人材(研究者・教員の長期身分保障も含む)が揃っていることが必要なようである。もちろん、生活・研究環境の整備と潤沢な研究資金があることに越したことはない。土研は1)に優れており2)に関しては異なる大学出身者の集団と言う点で優れていた。生研は、2)に優れている。本郷は3)に優れている。あとは、1)と2)が優れていれば鬼に金棒である。

setcmm_201706131417070372223848_407512

 

setcmm_201706131417070372223848_956947

今はもうこの世に存在しない生研六本木庁舎

(日本語のみ)