ゼロから分子を作りたい!
――分子の魅力を多面的に引き出す知的オリンピック――
これまで誰も生み出せなかった理論上の新しい分子の合成への挑戦。研究者にとって、自ら創出した新しい分子は、まるでペットのように愛着のある存在なのだといいます。染谷隆夫工学系研究科長が研究の成果と未来、発展のために必要なことについて語り合う対談の第6回では、有機合成化学の最先端に挑む秋山みどり特任助教に登場していただきました。女性研究者が抱えるキャリアの課題について正面からの議論にも注目です。
染谷:私も有機化合物をエレクトロニクスに応用に関する研究をしているのですが、有機化学の分野の方々が1年もかけて新しい分子を作り、できたといって喜んでいても何の特性も示さず、作った人ががっかりする、ということがよくありました。作るのも大変だけれども、新しい物性を生み出すのはさらにハードルが高いということは、体験をもって実感しています。電子が捕獲されることを確認できると、化学の分野でどういった価値を持ちますか?
秋山:理学的にとてもおもしろいと思っています。電子を捕獲して安定に保つ研究はこれまでにもさまざま例がありますが、基本的にはパイ軌道が多数つながった分子に電子が捉えられて安定化しているものがほとんどです。私たちの研究しているような、シグマ軌道が重なって電子を安定化させるという例は、77ケルビンもの低温環境でしか報告がありません。もし、こうした分子を作りだせたら、本当に新しいのです。ゆくゆくは教科書に「シグマ電子を安定化した例がある」と書かれるくらいになるかもしれません。ただ、それが何に役立つかというと……それはまだわからないですね。
染谷:先生がそれほど面白いと思っている、まだ誰も実現していいないものを生み出すことができたら、大変に重要で、そのこと自体に価値がありますね。工学の研究はなにか役に立たないといけないというものではなく、生み出された新しいものが世の中にどう役立つのか、発明した本人にもそのときにはわかっていないものだと思っています。どのくらい役に立ったかは結果論ですし、研究というのはもっと好奇心をもって独自の考え方を確かめていくことが醍醐味だと考えています。
先生しか持っていない興味、ほかの人が持っていない新しい展望が開けるならばぜひそれは成し遂げていただきたいです。副産物として、役立つことができればもちろんそれは称賛されるべきことです。ただ、「役に立つ」を出発点にしてしまうとみな同じ発想になってしまう懸念もありますから、そんなことは気にせずまっしぐらにやっていってください。
秋山:それは心強いです。「役に立つ」を目標にして始めると、ある分子をちょっとだけ変える、という手法になることが多いですね。先ほどのお話のように1年間かけて作った分子がなんの機能も示さないということもよくあるので、物性をよくするならばどうしてもそのほうが効率的です。ですが、私はそれよりもゼロから分子を作りたいという気持ちが強くあります。
染谷:「ゼロから分子を作る」ことがなぜそれほどエキサイティングなのか、ぜひ教えてください。そもそも先生はなぜフッ素に興味をもち、化学の世界に足を踏み入れたのでしょうか?
秋山:高校生のころから実験をして、実際に何かを確かめることがとても好きでした。高校の物理の先生は独特の授業スタイルを持っていて、実験を始める前に「これからどんなことが起きると思いますか?」と生徒に聞くのです。
みんなでわぁわぁ言いあって予想するのですが、実験してみると高校生の発想で考えたことはぜんぜん当たらない。すると「じゃあ、どうしてこうなったんだろう?」とまたみんなで議論して考える、そういう授業でした。仮説を立てて、やってみて「こうなると違うな、じゃあこうやってみると?」と考える。仮説を積み上げて立証していくというプロセスがとてもおもしろくて、化学を好きになった原点を探るとそこだなと思っています。
染谷:素晴らしい。高校までの授業だと、結果がわかっていてあまりワクワクする感じが少ないのかと思えば、高校生のときからみんなで考えて、予想と違う実験結果を得ることを楽しんでいたわけですね。その先生の力量もすごいですし、秋山先生が高校生でそんな先生に出会えたことは幸せだと思います。
秋山:とても大切な授業でした。そこで物理でなくて化学を志したのは、自分の手を動かして実験ができる点が大きかったです。大学に入って、理学系研究科の永田敬先生の授業で「ペット・モレキュール」、つまり自分の作った分子はペットのような存在だと聞いて、「それはいいな」と思いました。そのときから、自分のオリジナル分子を作りたいというあこがれや希望を持つようになりました。
染谷:それは化学の醍醐味ですね。学問の世界では、ある説を誰が最初に主張したのかということが定義によって諸説さまざまということもありますが、化学の世界だけは、「この分子を世界で最初に作った人は誰か、いつなのか」ということがきわめて明確にわかります。その明快さは魅力ですね。「オリジナル分子を作りたい」と、もしかしたら化学をやっている人は全員そう思っているのかもしれません。そこから先生がフッ素に興味を持つようになったのは?
秋山: 博士課程に在籍中に、化学生命工学科がフッ素化学を研究する社会連携講座を新しく立ち上げるとお聞きして、「面白そうだから是非一緒にやりたいです」といいました。フッ素と真剣に向き合ったのはその時が最初でしたが、研究するにつれてフッ素というのはとても魅力的な原子だということが分かってきました。ひとつでも分子に入れると、その分子の特徴がまったく変わるのがとても面白いです。また、簡単には扱えないフッ素ガスをうまく使うことができるようになれば、それも研究者としての武器になるだろうと思いました。
染谷:目標としていた分子を世界ではじめて作って、これからの先生の研究上の目標は何でしょうか? 研究者としての夢は?
秋山:「オリジナル分子」にこだわっていきたいです。オリジナル分子を作って、その分子を多面的に見られる研究者になりたいと思います。「役に立つからこの分野に応用したい」というよりも「こうした特徴を持つならこの分野で活かせるのでは?」というように、ときには他分野の研究者とも協力しながら、作った分子が一番良く活躍する場を見いだせるようになりたいです。フッ素は武器のひとつではありますが、固執しすぎると面白くなくなるとも思っています。
染谷:数学の分野では、何十年も解がわからない前人未到の難問がありますが、化学でも「これは不安定だから絶対できないにちがいない」みたいな課題があると、野心的な化学者はそれを作ろうとするわけですね。みんながそういう知的な競争をしているところで解を見つけるというのは、一種の知的なオリンピックだと思います。先生にはそのゲームをぜひ成し遂げてほしい。
大学は先生のような知的プレーヤーを応援する役割がありますが、研究リソースを整備しきれていない部分があります。若手研究者にとって安定したポストの確保がまずは最も重要だと思っていますが、先生にとって、研究科に望まれることはなんでしょうか?
秋山:私は特任助教なので、いつまでいられるかわからないという将来の不安があります。「子供を持つのか」といったプライベートな部分を含めたライフプランにも不安が大きいです。
女性であるということで、男女共同参画事業に呼ばれ、「どうすれば女子学生が増えるだろうか」と聞かれることも多いのですが、女性だけ集めて話したところで課題が解決できるとは思えません。アカデミアのみならず働いている女性は社会に多く存在するわけですが、研究科内の男性の同僚を見ていると「こうした働き方はきっとご家族に負担をかけるだろう」と思うことがよくあります。
そうした環境が工学部に女性が増えない、アカデミアに女性が少ない原因なのだろうと強く感じます。たとえば、学科のイベントが当たり前のように土曜日に開催されたり、退官される先生の最終講義で「内助の功」が称賛されていたり。家族や自身の生活を維持する負担をパートナー(現状ほとんどは女性)に丸投げすることを当然だとする文化は、変えていかなければいけない。多様な状況にある研究者にもっと配慮が必要だと考えています。
染谷:特任助教は契約更新の年限が短いという課題は私も十分、理解しています。特任助教を含め若手教員ポストの任期については、1、2年の短い期間ではなく、少なくとも5年間まで引き上げ――これは海外でもまとまった時間と思われる期間ですが――しっかりチャレンジできる環境を早期に整えていきます。特に女性の場合、ライフイベントがあった際に雇用が不安定にならないよう、新しい制度整備を進めています(注1)。まったなしの課題ですし、そうした課題があることはもちろん認識した上で取り組んでいます。先生には後輩のためにも諦めずに声を上げていただき、私も先生の声をプレッシャーに、内部改革をどんどん進めていきたいと思います。
(注1)インタビュー後の2021年4月1日より、工学系研究科では、社会連携講座等に所属する特任教員や特任研究員が産前・産後休暇を取得する場合、円滑な職務復帰を図るため、任期満了後に、特別休暇の取得期間(14週間)を特例としての任期を付すという制度をスタートさせました。詳しくは、工学系研究科の総務係にお問い合わせください。
Profile
秋山 みどり特任助教
練馬区立光が丘第三中学校(東京都)出身、筑波大学附属高等学校(東京都)出身
聞き手:研究科長 染谷 隆夫教授
東京学芸大学附属竹早中学校(東京都)出身、東京学芸大学附属高等学校(東京都)出身
※所属や職位の情報は全て取材時点での内容です。