【退官記念随筆】大坪 英臣(環境海洋工学専攻 教授)

退官記念随筆

小学校時代と本郷キャンパス

工学系研究科環境海洋工学工学専攻 教授
大坪 英臣

 

私は小学校二年生のときに父親の勤務の関係から宇都宮から文京区に移ってきた。それ以来通った学校は東大の教養のときの駒場を除くとすべて文京区にある。おまけに勤めたのが船舶工学科で退官までずーっといたので、すこぶる長い間本郷キャンパスのあたりをうろうろしていたことになる。50年間を超えることになる。

 

文京区での住宅は正門と赤門の間にある落第横丁を通り過ぎた児童公園の近くにあって、今ではなくなってしまった小さな台町という町にあった。小学校は本郷4丁目にある文京区立真砂小学校であった。

 

東京の最初の日の記憶は駄菓子屋での出来事で今でもはっきりと思い出す。

 

たぶん引越しで長旅をしたお駄賃であったのだと思うが、普段もらったことのない小銭を母親がくれたので、うきうきしながら駄菓子屋を探し始めた。それは正門の前を進んだ通りの突き当りの五辻広場の近くに在った。

 

駄菓子屋で欲しかったものを注文した。「パンください。」

 

駄菓子屋のおばさんは食べるパンなら駄菓子屋にはないことを説明し、注文が食べるものでないのを知ってなおさら困惑していた。周りにいる子供たちも、見慣れない子供が変なものを探しているので好奇心いっぱいで見ている。こちらもしばらくは「パン、パン」と繰り返すだけである。

 

遊び方をゼスチュアーで示しておばさんは「パン」が面子(めんこ)であることにようやく気がついた。パンは宇都宮で通用する言葉だったのである。地面に打ちつけたとき出る音から来ていたのだと思う。狭い店中が爆笑の渦となって、私はそれを馬鹿にされたと思い非常に傷ついてしまった。買い物する喜びが生まれた初めて味わう屈辱感に変わった。

 

生活に慣れてくると、当時の東京帝国大学大のキャンパスが小学校の放課後の時間を過ごす場所のひとつとなる。

 

正門や赤門には守衛所があり、子供が遊びに入ると「こらっ」と怒られるので、普段は本郷通りの塀の低いところを選んで乗り越えてキャンパスに入る。東大に勤めるようになってから研究で帰りが深夜となり門から出られなくなって塀を乗り越えるたびに昔を思い出した。子どものころは高いところから飛び降りてもひざが痛まず、軟骨がたくさんあったし、体重が軽かったのだなーと思う。

 

本郷キャンパスの古い建物は基本的には今と変わっていない。古臭くて子供にとっては陰気な雰囲気であったが、三四郎池は今よりはるかに美しく湧き出た水で水量は豊富であった。水が湧く場所は総合図書館側にあったが、そこでは澄んだ水の中で白い砂が舞っていて水が湧いていることがわかった。夏には泳ぐ子供がいた。

 

三四郎池では冬には毎年表面が凍り、氷はかなり厚くなって勇気のある友達が氷の上に乗って氷が割れて池に落ちたりした。時には、犬が氷の上をはしゃいで走り回り、真ん中あたりの薄いところで氷が割れて池に落ちることもあった。あせり狂って氷の上に上がろうとするが端の氷が割れてなかなか上がれないし、人は重いので助けに行くこともできない。

 

御殿下グランドの今は山上会館の拡張でなくなってしまった脇の斜面ではよく走り回って遊んでいた。ところどころの草を結んで輪を作り、友達がそれに足をとられてひっくり返るのを喜んだりした。また山上会館と七徳館の間にある枝振りの良い木(スダジイという木らしい)があるが、その木に登ったりしたが、同級生がかなり高いところから落ちて尻を地面に強打し、われわれが担いで運ぶ間「死んじゃうよー、死んじゃうよー。」と泣き喚いていた。

 

夏の楽しみは蝉取りで、長い竹の先に取りもちをつけて採りまくった。夏のキャンパスは人影もまばらで暑い日差しの中、せみの声に囲まれてキャンパスを一日中歩き回った。

 

夏休みの課題としていろいろな草花の押し花を作り、名前を調べて提出した年があったが、もちろんその採集地は主に東大のキャンパスであった。

 

小学校高学年となると鉱物採集をして、箱を作り小さく区切った中に鉱物のサンプルを入れ説明をつけて提出した。

 

集めた種類はかなり多く立派な鉱物サンプル集であった。

 

実は採集場所はキャンパスの中で、今にして思えば工学部の鉱山学科か理学部の地学科あたりの建物の裏のゴミ捨て場であったと思う。見掛けのわりにいい加減な課題制作だったと思う。採集場所の項目をどう書いたのか思い出せない。

 

高学年になると三四郎池の周りで上野の黒門小学校の生徒と集団でけんかをしてかんしゃく球をゴムのパチンコで飛ばしてぶつけあったりした。後で講堂に集められて校長先生からきつく怒られた。守衛さんが文句を言ったのだと思う。

 

東大の学生は全員学生服を着て学帽をかぶっていた。近所の人は「帝大生」と呼んで大事にしていたと思う。メーデー事件などがあったりして、正門の前で警察隊に小突かれながら逮捕されるのを見たことがあってかなりショックを受けた。

 

法文系25番教室ではよく映画をやっていて「羅生門」や「女の園」とかを見た覚えがある。「羅生門」は小学生にはまったく理解できなかった。

 

後で観て、検非違使の殺人事件に関係した登場人物3人がおのおの異なる証言をする筋立てで同じ場面が視点を変えて繰り返し出てくるは確かに子供にはなるほどわかりにくいと思った。「女の園」ではなんとなく甘酸っぱい感覚が残った。小学校高学年ころから観る映画の女優を必ず好きになってしまった。

 

五月祭は楽しみで、ワイヤー式の録音機が展示されていて自分の声を再生できて驚いた。調子に乗ってその頃得意になって覚えていた「長屋の花見」を吹き込んだと思う。

 

今にして思えば、これも同じ工学部3号館であったと思うが、小さな水槽で模型の船を引っ張っていたのを眺めたりした。たぶん船の抵抗を測っていたのだと思うがそれで進路を決めるきっかけのひとつであると思うと不思議な気がする。

 

と言うことで、東大とはほかの方々よりかなり長い付き合いとなっていると思う。

 

四季折々の樹木には研究の疲れを癒された。特に秋になると銀杏が美しく色づくが、工学部一号館前のロータリーの中心の銀杏の木の美しさにはいつも感動していた。銀杏は雌雄異株といわれるが、私にはどうしてもあの木には女性の優雅さしか見えない。

 

これらがこれからは小学校の頃からの本郷キャンパスの思い出と一緒に保存されていくことになるのは少し悲しい気がする。

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(日本語のみ)