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ENGINEERING POWER 東京大学工学部ガイド[エンジニアリングパワー] - 東京大学工学部

工学寮電信科から生まれた日本の電気

工学寮の学舎は今の千代田区霞が関、文部科学省の一帯にあった(写真はのちの工部大学校時代)。

西洋技術を取り入れることで発展してきた近代の日本。そこには「電気」というものを自分たちのものにしてきた歩みもあった。東京大学工学部の原点の一つ「工学寮」で時代をともにしてきた人々との篤い志が、〝日本の電気を〝誕生させたのである。

研究熱心なイギリスの物理学者が来日する

日本が文明開化のただ中にあった1873(明治)年月、一人のイギリス人物理学者が東京の地を踏んだ。彼の名はウィリアム・エドワード・エアトン。明治政府の工部省が開いた工学寮の電信科で、日本人学生を指導するために招かれた。工学寮は、西洋の学問を日本人が学ぶための高等教育機関で、今の東京大学工学部の原点のひとつにあたる。

エアトンは当時、26歳。ロンドン出身で、東京に来る前はイギリスの植民地だったインドのボンベイ(現ムンバイ)で通信建設の仕事をしたこともある。若輩の研究者が極東の小国に送り込まれたのかといえば、決してそうではない。学生時代には、のちにケルヴィン卿と呼ばれ、絶対温度の単位K「ケルヴィン」の名の由来ともなった物理学の世界的な大家ウィリアム・トムソンに学び、電信に関する多くの論文を発表していた。東京大学工学部大学院工学系研究科電気系工学専攻の日高邦彦教授は「イギリスは立派な人物を選んだ。よく日本に来てくれた」と話す。

実際、明治政府はエアトンを高待遇迎えた。彼の月給は、初代校長となったヘンリー・ダイアーの600円に次ぐ500円。これは当時の大臣が得る月給に劣らないほどの額だ。

エアトンがいかに研究で優れた人物であったか想像させるような話がある。電磁気学の祖とされるイギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェルは、エアトンが日本へ渡ったことを「電気学界の重心は日本に近づけり」と評したといわれている。エアトンはまた研究熱心でもあった。帰国の際、乗る予定の汽車に乗り遅れると、次の汽車の時間まで学校に戻って実験を行ったという逸話があるほどだ。

来日した年の10月1日、工学寮での教育が始まった。エアトンは電信科と物理科で熱心すぎるほどの教育を施した。そして暗記よりも実験に常に重きを置いたといわれる。学生たちが、日本で始まったばかりのどんな仕事にも対応できるようにという教育心からのものだった。その教育は、1878(明治)年にエアトンが工学寮を離れ帰国するまで変わらなかった。

エアトンから手ほどきを受けた電信科第期生は、選ばれし二十余名。その中には天賦の才能をもつ若者がいた。

未来の電気社会を予測した伝説の演説

志田林三郎は、今の佐賀県多久市に生まれた。地元の藩校で学んだあと東京の工学寮を目指す。入学試験に受かり、官費、つまり政府から出るお金で学ぶ官費生に選ばれた。

神童。天才。怪物。志田の才能を評する言葉だ。工学寮で行われた数学試験では、50点台や60点台が並ぶ中、志田の得点は93点と抜きん出ていた。工学寮での部屋割りは試験の成績順で、電信科首席の志田は、のちに日本の代表的化学者となる高峰譲吉や鉄道技術者になる南清(みなみきよし)たちと相部屋生活を送った。

エアトンから電信技術を学び、1879(明治12)年、志田は同期生とともに工学寮を卒業した。そして電信科の首席として他学科の首席とともに英国留学を命ぜられ、名門グラスゴ大学でエアトンにとっての師でもあるケルヴィン卿に師事し、数学や物理学を学ぶ。彼の才能は世界で通用するものだった。その年、グラスゴー大学で最優秀論文を書いた学生人だけに贈られる「クリーランド金賞」を受賞したのである。師となったケルヴィン卿からは「数ある教え子の中で最高の学生」と評された。

帰国後、指導者の役割が待っていた。工学寮から名を変えた工部大学校で教授となる。同時に官職(現在の国家公務員)として重職を担う。工部省で技術官吏たちをまとめる工部権少技長という役職に就いた。

1888(明治21)年6月25日、京橋区西紺屋町(現在の中央区西銀座)にあった地学協会会館で、今も続く電気学会の第1回総会が開かれた。この学会を設立し、幹事長を務めていた志田の演説は、伝説として語り継がれている。次のようなものだ。

「一本の電線により毎分数百語の速度で同時に複数の音声を送受信する時代が来るであろう」

「数百里離れた場所で演じられる歌や音楽を、東京に居ながらにして楽しむ日が来るであろう」

「電気鉄道や電気船舶を使うことが増え、黒煙白煙を吐かない鉄道列車や水路船舶を見る日が来るであろう」

「電気や磁気の働きによって光を遠隔地に輸送し、遠隔地にいる人と自在にお互いの顔を見る方法が発明されることも必ずしも夢ではないであろう」

「音声を録音して、演説や談話、その他のいかなる音声でも機械仕掛けによってこれを記録する方法が発明されるであろう」

電気通信技術がもたらすであろうイノベーションを「電気電信の未来予測」として合計9つにわたり並べたのである。そしてこれらの予測のほとんどが、のちの時代に実現している。志田には電気が創る未来像が鮮明に見えていたのかもしれない。

"日本の電気"の発展を嘱望された志田であったが、1892(明治25)年、36歳のときに突然体力が衰えはじめ、急逝する。

「官や学における電気の発展に尽力した。生き急いだのかもしれない」と日高教授は語る。

志田たち第1期生の後輩にあたる、才や志をもった優秀な若者たちも次々と入学してきた。電信科の開学から2年後にはのちに"日本のエジソン"と称されるようになる企業家が、工学寮に入学を果たす。

日本の電気産業の発展に大きく寄与した人物として挙げられるのが〝日本のエジソン〟こと藤岡市助だ。いまの山口県岩国市出身で、1875(明治8)年、第3期生として工学寮電信科に入学した。1881(明治14)年、名の改まった工部大学校を卒業している。

日本の電気の歴史に刻まれる出来事を、藤岡はエアトンの指揮の下、実現させる。1878(明治11)年3月25日、工部省中央電信局の完成記念式に使われた工部大学校の講堂をフランス製アーク灯で照らしたのである。日本で初めてともった電灯だった。この3月25日は、いま「電気記念日」となっている。

「大学で試作したものを産業に発展させていく。藤岡はベンチャーの先駆けの名にふさわしい人物」と日高教授は評する。アーク灯を工部大学校内で試作したほか、電灯をともすための発電機も工部大学校の学内工作所で作製した。この発電機は、東京大学工学部内に現存する。

工部大学校卒業後の1884(明治17)年、藤岡はアメリカの万国電気博覧会に派遣された際、発明王トーマス・エジソンに会う。エジソンから自国で電気器具を自給することの大切さを説かれた藤岡は、日本の電気事業創設の意を決して帰国した。そして1886(明治19)年、今の東京電力の前身にあたる東京電燈を同志と設立する。それまでは工部大学校の教授も続けた。

さらに1890(明治23)年、現・東芝の原点の一つとなる、電球製造業の白熱舎を同郷の三吉正一と設立した。電球の明るさを2段階に調節できる独自の方式を考案した。本家のエジソンを超えたのである。

藤岡が手掛けた実用品はほかにも数多くある。白熱舎設立と同年に開かれた「第3回内国勧業博覧会」では、日本で初めて路面電車を走らせた。また同年、浅草の12階建ての塔「凌雲閣」に電動式エレベーターを導入し、各階をアク灯で飾り、東京の街を大いに賑わせた。"日本のエジソン"の呼び名にふさわしく、現在までに発展する電気を使った製品を多産したのである。

東京大学工学部の源流の一つである工学寮とその後の工部大学校で、教師と学生は技、知、そして志を高めてきた。それが〝日本の電気〟の誕生と発展の礎になった。

「工学寮には、明治時代に生きた日本人の先見性をうかがわせる何かがあった」と、日高教授は誇らしげな表情で話す。

「学科名に〝電〟の字がつく高等教育機関は、工学寮電信科が世界最古。それまで世界では、電気についての研究はすべて物理学科の一つの講座にとどまっていた。日本が西欧に追いつくために、工業や産業に結びつく学問をいかに重視していたかが想像できる」

 

工学寮から名を変えた工部大学校は1886(明治19)年、東大工学部のもう一つの源流である東京大学工芸学部と合併し、東京帝国大学になった。工学寮電信科は工学部電気工学科となった。そして戦後の1947(昭和22)年、東京大学に改称される。

 

東大工学部の源流には、新しい日本を創るという精神に満ち満ちた志高き師弟たちがいた。その偉業と意志は、今も師弟たちに受け継がれ、東大工学部の大きな支えの一つになっている。